さるぼぼが紡ぐ、飛騨の歴史と未来 ー 中澤淳 (有限会社オリジナル)

 

飛騨高山のお土産といえば「さるぼぼ」。その生みの親である有限会社オリジナルで働く、中澤淳(なかざわじゅん)さん。

家業を継ぐ気がなく上京したはずが、気づいたらさるぼぼと地元をこよなく愛する飛騨人に・・。そんな中澤さんの半生を取材しました。

さるぼぼに囲まれて育った少年時代。

高山市上岡本町で生まれました。3人姉弟で上に姉が二人いまして、僕は末っ子で待望の男の子。父親がさるぼぼを製作する有限会社オリジナルを経営しており、たくさんのさるぼぼに囲まれながら育ちました。父親が小中高とPTA会長を務めるなど活動的な人だったため、小さな頃から人の目を気にして、失敗するのが嫌いな子どもでしたね。

 

姉がアメリカに1年間留学していたり、何度も交換留学生をホームステイで受け入れていたので、一般の家庭よりも英語が身近にありました。それに影響されてか、漠然と英語やITを学びたかったのと変わった大学に行きたいと思い、一浪して国際基徳教大学に進学しました。進学先を決める際に将来のことは考えていなくて、高山からやっと出たぜ!くらいの気持ち。当然、家業を継ぐつもりは0、むしろマイナス50くらいでした。

 

上京し入学してみたら、周りは真面目に勉強する人が多くて驚きました。僕の大学の図書館は、当時は日本で一番利用率の高い図書館で有名で、自習席を取ろうにも予約待ち。僕も周りに合わせて、結構勉強していました。家庭教師とか塾講師とかバイトもしていたけれど、真面目で平凡な大学生活でした。

 

就活ではIT系やベンチャー企業を志望していました。当時はベンチャー企業がどんどん台頭していて、学生側も上昇志向で成長したい人が多かったですね。思い返せば、地元で就職なんて考えもしなかったです。僕は家庭教師の派遣やeラーニングサイトの運営をしている、社員30人規模の教育系のベンチャー企業に就職しました。そこの社長がかなりのマーケット志向で、緻密なデータを基に顧客対象を絞って事業を進めていまして、ロジックの組み立て方がとても勉強になったしカッコ良かったです。

 

 

でも3年間その会社で働いて、カッコいい部分だけを見て入社したけどそれだけじゃないと気づきました。例えば「仕事を任せます。裁量ある職場です」と言ったって、辞めた人の分の仕事が回されているだけだったり。辞める前提でどうしようかなと真剣に将来について考えた時、高山に帰る選択肢がようやく浮かびました。

煎餅とニンニクと私

上京してからも父親とはごはんを食べたりしていまして、その度に今の会社の状態や、事業の面白さ、会社内の人間関係の悩みなどを包み隠さず話してくれていたんです。でも「帰ってこいよ」とは言わない。それに甘えながらも、責任感と恩返しをしたい気持ちは徐々に芽生えましたね。

 

その頃から父親は新規事業の立ち上げを模索していまして、注目していたのがニンニクでした。青森県がニンニクの生産で有名なのですが、森林面積が広くて寒冷地であることや、冬の雪深い中でも農耕できるニンニクの栽培が高山にも適していると考えたんです。高山中で冬にニンニクを作ろう!という壮大なプロジェクトで、僕も強く惹かれました。それなら高山に帰っても良いかなって。

 

とはいえ、高山にいずれ帰るという視点で今まで仕事をしていなかった。なので一度、家業に近い仕事を経験しようと思い、ご縁をいただいて東京の老舗のお煎餅屋に転職しました。そこは創業100年以上続く、贈呈用の高級なお煎餅を作っている会社です。営業のスタイルがお得意先を回る形で似ていたのと、代々家業で社長が60代、その息子さんが僕の2歳上とちょっと先の自分の未来に近かったんです。

 

お煎餅屋では、自分が会社に存在することで、いくら人件費がかかるのかを学びました。原価と利益から、今月最低これだけは売らなきゃいけない。自分の食い扶持を稼ぐ視点で働くことで、経営側と雇用側は考え方が違うと痛感しとても勉強になりました。

 

僕が修行している間に、ニンニクの事業は父親が少しずつ進めてくれていたのですが、僕が高山に帰る直前に撤退したんです。ニンニクは土の栄養を大きく吸い取ってしまうため、土地を休ませて再生させる必要がありました。そのため毎年の生産が上手くいかなくて、栄養剤を与えても安定せず・・。致命的だったのがアドバイザーに農業の現場に詳しい人がいなかったんです。それが面白そうで高山帰ろうと思ったのになんやねん!と思いながらも、それならさるぼぼで頑張ろうと高山に戻ってきたのが4年前になります。

飛騨地域に残されていたさるぼぼ。

さるぼぼはもともと奈良時代に、遣唐使が日本へ持ってきて全国に広がった貴族のお産のお守りなんです。「這子(ホウコ)」という、赤ん坊の這う姿を象って作ったぬいぐるみで、幼児の魔除けとして用いられていました。江戸時代には民間にも広まり、天然痘が流行った頃から赤い布を使うようになったそうです。やがて他にもさまざまな人形が作られる中で衰退したのですが・・。

 

父親が昔、飛騨地域の伝承や昔話を調べていたんです。それで丹生川のローカルなお祭りを見に行った時に、さるぼぼを発見したんです。父親が丹生川のお年寄りに聞いたら「昔から伝わっているものだから作っている」だそうで、猿の赤ちゃんに似ていることから、飛騨の方言で「さる(=猿)ぼぼ(=赤ちゃん)」と呼ばれていました。つまりは飛騨地域には這子が残って、さるぼぼという形に変化していたんですね。発見当初は細長い胴体でした。これはすごく面白いから売ってみようということで、お土産物として父親が作り始めました。

 

 

あれから40年余り、飛騨のお土産としてのさるぼぼは円熟期を過ぎ、お土産以外の切り口を模索しないとなかなか売上も上がらない時代。そんな中、先日売り出したのが「子福さるぼぼ」です。今の日本は少子高齢化もあり、「妊活」など子育てを支援する流れが大きくなっています。きっと「子宝」は、今後成長していくキーワード。

 

しかし「さるぼぼ 子宝」で検索すると、一番上位に表示されるのがオレンジ色のさるぼぼなんです。風水でオレンジ色は子宝運が上昇するそうですが、もっと子宝に特化した縁起よいものが作れないかと思い、マタニティの服を着ておなかがふっくら妊婦をイメージした「子福さるぼぼ」が誕生しました。

 

 

こうしたマーケティング視点から作られた、目的を明確にしたさるぼぼの売り上げは好調ですね。最初のベンチャー企業で学んだ手法が役立っています。何より購入されるお客様のお気持ちや、さるぼぼが寄り添う様子が想像できて僕らも嬉しいです。

泣き相撲と飛騨みらいカレッジとの出会い。

父親が飛騨護国神社の役員を務めているんですが、知名度が乏しくて盛り上げる手段はないかと模索していたんです。そんな折、東北で仕事をしていた姉が「泣き相撲」が長年続いていて面白いと教えてくれました。生後半年から1年半の赤ちゃんが土俵で向き合い、先に泣いた方が負けというルール。そのユニークさに惹かれたのと、なにより飛騨護国神社は江戸時代から2002年までは土俵もあり、高山の相撲の聖地だったのでぴったりでしたね。

 

 

ちょうど僕が高山に帰る年に組織が発足し、お金を集めたりと外堀は埋まっていたのですが、肝心の内容が開催日しか決まっていませんでした。それで実働の役割が僕に回ってきまして、高山での初めての仕事となりました。おかげさまで今年で4回目です。1回目は200人の参加人数を集めるのに4ヶ月かかったけれど、今年は10日間で300人集まりました。観光イベント以上の開催意義を感じています。なにより赤ちゃんが泣いて、それをみんなで喜べるイベントが良いですよね!そんな赤ちゃんが主役のイベントを、さるぼぼを作っている僕らが担えていることも嬉しいです。

 

東京にいたときに「高山出身なんです」と言うと、「高山祭良いよね!」とか「白川郷ってどうなの?」とか聞かれるんですけど、上手く答えられないんですよ。高校生の時に行く高山祭なんて、友達と出店で焼きそばを食べるくらいじゃないですか。しっかり屋台なんて見たことなかったし、めでたなんて聞いたこともなかった。だから高山に戻ってきて、地元のことを勉強しようという意識が高まってきたんです。そんな時に知り合った長瀬めぐみさんの父親が郷土史研究家で、その方に歴史を教えてもらう講座を開催していただきました。それがすごく良くて、イベントとして定期開催していこうと「飛騨みらいカレッジ」の運営に加わります。

 

飛騨みらいカレッジでは飛騨地域の方を講師に迎えて、さまざまなテーマで勉強会を開催しています。地元を盛り上げようと思っている人が多いのがすごく良いですね。高山がつまんないって言ってる人は一回、飛騨みらいカレッジに来てみてください!他のまちづくりの場でもいいから行ってみると、こんなに面白い地域でこんなに面白い人がいるんだって気づくはずです。

 

他には倫理法人会にも所属しており、毎週早朝5時55分から活動しています。高山に帰ってきたときには知り合いも友人も少なかったけど、こうしたコミュニティに支えられて仕事にも繋がっていますね。

地元の人にこそ、さるぼぼを可愛がってほしい。

僕は最近、「陣屋」が好きなんです。地元の人はなかなか行かないですが、無料のガイドが付いてみっちり解説してくれるんです。先日一人で遊びに行ったのですが、僕一人に向けての解説でも手を抜かないプロ意識と情報量がすごいです。観光客があまりいない時間帯を見計らって、中庭が見える縁側でぼーっとする時間は至福ですね。

 

もう一つ大好きなスポットは、夜の「大新町」です。朝日町で飲んだ帰りなんかに、弥生橋から川沿いをちょっと歩くと大鳥居がありますよね。その八幡神社の大鳥居から参道にかけて、人が全く歩いていない中で明かりがポッと付いているのがとっても綺麗です。僕は今は三福寺に住んでいるのですが、夜の大新町が見たいからわざわざ歩いて帰っているくらい。また雨が降った時は特に、地面が反射で光って最高なんです。

 

高山にはさるぼぼを作っている会社が3つあり、あとは個人で作っている方々もいらっしゃいます。僕らも数少ないさるぼぼの担い手として、絶やさないように後世に伝えていきたいです。そのために地元の人にももっと、さるぼぼを可愛がってほしい。一人一さるぼぼが理想ですね。お守りに安産祈願に、きっとご利益があります。ちなみにうちの会社が作っているさるぼぼは、抱えている巾着袋に金色の和紙が貼ってあり、「お守り」と書かれています。そんな違いにも注目していただけたら嬉しいです。

 

 

もっともっと高山を面白い街にしたいですね。高校生の頃は分からなかったけど、物が増えるとかデパートができたらいいなあとかじゃないんです。都会では実現できない面白さが溢れる街にしたい。その魅力の一つとしてさるぼぼがこれからも在り続けるように、僕に出来ることを尽力していきます。

 

都会に出たからこそ、見えてきた地元の魅力。

さるぼぼを心から愛する中澤さんの優しい眼差しは、次世代の高山の姿を見据えています。

地元民こそ一人一さるぼぼで、みんなでさるぼぼを可愛がっていきましょう。

 

連絡先

中澤淳(なかざわじゅん)

Facebook:https://www.facebook.com/profile.php?id=100009150452657

 

<有限会社オリジナル 本社およびあん・クラフト事業部>

住所:岐阜県高山市上岡本町3-376

TEL:0577-35-1230

MAIL: info@hidanosarubobo.com

営業時間:月~金曜日 9:0017:00(土日、祝日を除く)

WEBサイト:https://www.hidanosarubobo.jp/

Facebookページ:https://www.facebook.com/SaruboboShop.official/

 

<飛騨みらいカレッジ>

https://www.facebook.com/hida.miraicollege/

・定期的に飛騨地域の素敵な方を講師に迎え。様々なテーマで勉強会を開催しています。

この記事を書いた人

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丸山純平

丸山純平(まるやま じゅんぺい)
高山市出身。株式会社ゴーアヘッドワークス 企画/ライター
ヒダストのほぼ全ての記事を書いています。
最近は飛騨ジモト大学の事務局も担当。
一緒に飛騨を盛り上げたい方募集中!好きな食べ物はチーズケーキ。