マチの課題をデザインの力で打開したい。等身大の僕が積み重ねてきた、デザイン ー 竹本純 ( 株式会社ゴーアヘッドワークス 高山チーフ )

飛騨高山のデザイン事務所「株式会社ゴーアヘッドワークス」で高山チーフを務める竹本純(たけもとじゅん)さん。実用的なグラフィックデザインを得意とし、デザイナーやイラストレーターとして幅広く活躍しながらも、その半生は挫折と後悔の連続でした。等身大でぶつかってきた29歳、今まさに最前線で挑戦する竹本さんのストーリーをどうぞご覧ください。

学生時代から取り組み続けた、表現

高山市上岡本町で生まれました。小さい頃は昆虫採集が大好きで、誕生日には昆虫図鑑を買ってもらうのが定番。お調子者でおっちょこちょいな性格で、しょっちゅう怪我をしていましたね。図工と体育が好きで、絵もよく描いていました。

中学校ではバスケ部に入ったのですが顧問が厳しくて、怒られることが本当に嫌いになりました。だからできるだけ怒られないように、校則の範囲内でどうはっちゃけるかに全てを賭けてたんです。同級生をモデルにしたカードゲームを作ったり、教室内に菜園を作ってトマトやスイカを栽培して食べていました。

物作りや創作が好きだったこともあり、高山工業高校のインテリア科に進学します。この頃から似顔絵も描いてました。しかし高校生活で一番のめり込んだのは音楽ですね。「バンドやろうぜ!」と友人の一言でギターにベース、ハーモニカを始めました。どれも中途半端な出来栄えですが、よく市民広場で路上ライブをしていたんです。代表曲は「びんちょうまぐろ」です。

あとは当時流行っていたヒップホップやレゲエといった音楽を知り、「ラップはお金もかからないし、楽器が弾けなくてもできる音楽だ!」なんて安直な考えで始めて、現在も続けています。最近では、「ビジネスマンラップトーナメント」という社会人ラップバトルの大会にも出場しました。

絵も描き続けていて、ネット上に自作の漫画を公開するなど、当初は漫画家を夢見ていました。そんな折、アルバイト先でPOPを制作した時に店長からとても褒めてもらえたんです。自分の絵を一番最初に認めてくれたのは「デザイン」というお仕事でした。なにより身近な方から褒めてもらえることにやりがいを感じ、嬉しかったですね。

当時は「グラフィックデザイナー」という職業を知らなかったのですが、進学先はデザインの専門学校「名古屋デザイナー学院」を志望。パンフレットの写真にすごく可愛い女の子が載っていたことが決め手でした(笑)。

大きな挫折で落ち込んだ、底辺

進学して、名古屋での一人暮らしが始まりました。最初は授業を真面目に受けていたのですが、同級生や先輩に実力やセンスの差を見せつけられてふてくされ、やがて出席だけ取った後は近くのコンビニで暇を潰したり、パチンコに通ったり……。アルバイトもろくにしていなかったのでお金もなく、冷蔵庫の奥に唯一入っていたソースや味噌を舐めたりもしていました。

実はこの頃に弊社代表の蒲優祐に出会っているんです。きっかけは「デザイン事務所にアポを取って、インタビューをしてレポート書く」という学校の課題。名古屋のデザイン事務所をネットで探す中で心奪われたのが、当時蒲が代表を務めていた会社でした。

蒲が高山出身ということもあり、色々な会話をしたんです。盛り上がった最後に僕の作品集を見せて「僕は使えますか?」と聞いたら「使えんね……」と言われたことをよく覚えています(笑)。

相変わらず専門学校には真面目に通わず、そんな状態でやがて就職活動を始めるのですが面接でことごとく落とされるんです。同級生が次々と内定を取る中、過去最大の劣等感で卑屈になっていました。ちょうど当時、SNS経由でお仕事を依頼されたり、知人のイベントのフライヤーを制作したりと、自身のデザインが仕事になっていた時期なだけに余計悔しかったですね。

結局、就職活動に失敗してとりあえず地元へ戻るために引っ越しました。高山へ帰るバスの中で「2年間、僕は何かを残せたのか、何もできなかった」と号泣した瞬間は一生忘れられません。ドン底でした。

地元の飛騨高山で再起をかけた、挑戦

地元のカフェでアルバイトをしながら、引き続き就職活動をしていました。カフェの商品のPOPなども制作しながら、やっぱりデザインの仕事をしたいと想いを募らせていた頃、アパレルショップでデザイナーを募集しているのを見つけたんです。早速面接に行ったら「あなたはブレスみたいなところが向いている」と言われて、フリーペーパー制作をしている有限会社ブレスの細井卓美社長を紹介してもらいました。しかし最初の面接で「今は募集してない」ということであえなく断念。 懲りずにあらためて電話したら「アルバイトからならいいよ」ということで、ようやくデザインの仕事に就けました。

デザイン編集ソフトの使い方もろくに知らなかった当時、先輩社員にけちょんけちょんにされながらも雑草魂でなんとか食らいついていく日々でした。そうして晴れてブレスの正社員になった後は、チラシ・DM・タウン情報誌の制作など、デザインの基礎を一から叩きこまれました。僕の基礎はブレスでの必死の学びです。作業スピードが遅くて仕事はなかなか終わらなかったけれど、やりがいを感じていました。

その頃SNSを通じて、蒲と再びご縁が繋がります。同年代の飲み会などにも誘われるようになり、あじ平のしんさんや駿河屋の清太郎さんといった高山の勢いある若手から色々と刺激をもらいました。また中学校の同級生と地元にバスケサークルを設立して、もう解散しちゃったんですがたくさんの繋がりができたんです。同時に人間関係の難しさを痛感する出来事も多々ありましたね。

当時蒲が取り組んでいたゆるキャラ「お猿のくぅ」のグッズ制作や、子ども向けのワークショップに関わるようになり、徐々に蒲をライバル視するようになりました。蒲は27歳の時には独立していたので、自分の年齢を蒲に重ねて足跡を追いかけるようになったんです。

背中を追いかけて手広く積んだ、経験

いつか蒲を追い越してやるぞ!そんな気持ちでアートを軸に手広く挑戦し始めました。

市民団体「スマイルデザインプロジェクト」を設立して、アートに特化したイベントや「ヒダロッキンフェス」を開催。スキー場を貸し切っての音楽イベントでしたが、初回は300人集客目標で当日のお客さんが60人。大赤字で口座残高が吹っ飛びました。でも会を重ねるごとに大きくなり、徐々に仲間も集まってきます。

いろいろな活動の中で少しずつ名前も売れてきたのか「イベントで似顔絵を描いて欲しい」というご依頼がきました。自信はなかったけどとりあえずやってみよう!の精神で、初めて対面で似顔絵を描いてお金をいただきました。もちろんそれまでイラストを描く仕事はしていましたが、人が喜ぶ瞬間に直接立ち会えていなかったんですよね。お客さんと直に繋がれたり、喜んでくれるのが新鮮でした。

そんな経験がきっかけで似顔絵の世界に引き込まれ、飛騨在住の若手クリエーターで「マチの似顔絵屋さん」という似顔絵チームを結成しました。高山市内のイベントへの出店も重ねる中で、お互い個性的な絵のタッチで切磋琢磨しながら、似顔絵の技術を磨き合いました。

 

蒲は相手にしていたのか分かりませんが、僕もこれだけの挑戦をしている!とバチバチのライバル視をしていたんです。そうしたら蒲から「うちに来ないか?」と誘われました。

悩んだ末に4年半勤めた有限会社ブレスを円満退職し、株式会社ゴーアヘッドワークスに転職しました。今だから言えますが、「3年くらい働いて、盗むだけ盗んでやろう」くらいの気持ちです。当時会社が名古屋事務所のみでしたので、学生時代の因縁がある名古屋へ引っ越しました。

ゴーアヘッドワークスで誓う、貢献

入社後の初仕事は昆虫採集イベントのお手伝い。その後は保育セミナーのスタッフと全然デザインの仕事がなくて、蒲への不満が募る日々。徐々に似顔絵やデザインの仕事が増えていったものの、僕の実力不足からいろんな方に助けてもらっていました。今振り返れば、入社から半年くらいは蒲とは微妙な関係でした。いろいろな不安感、友人の活躍を横目に焦燥感があり、早く独立したいとすら思っていたんです。

 

そんな中、大きな転機が訪れます。蒲のご縁で、毎年1月に高知県で坂本龍馬像に将来や目標を誓う「龍馬の会」に参加したんです。 僕も自信満々に目標を語るも色々と突っ込まれ、蒲のビジョンや想いとも合致しない点が多々あったんですね。他の参加者に 「お前らはもっと話し合え」と言われ、蒲と本音でみっちり話しました。蒲の会社や僕に対する想いを聞き、応えられていない自分が情けなくなって大号泣。学生時代の後悔も含めて、意思がより一層固くなりました。決意として髪をさっぱり坊主にし、再スタートを誓ったんです。

 

それからは毎日挑戦や失敗の連続ではありましたが、仕事に打ち込む中で色々なコンペや公募に応募し、多くの賞を受賞できました。次の年の「龍馬の会」では、昨年決めた目標を達成できていてリベンジに成功!美味しいお酒が飲めました。

 

自分で仕事を取ってくることも増えて、少しずつ軌道に乗り始めましたね。 初めてのボーナスも出て、社員旅行で海外にも行けました。蒲は事あるごとに手紙を贈ってくれるのですが、ボーナスに同封されていた手紙は宝物です。あんなに落ちこぼれだった自分が母校のパンフレットにも掲載されて、今までの小さな積み重ねが花開く瞬間でした。

 

会社も大きくなるタイミングで清水真規子が弊社にジョインし、似顔絵師としてずっと尊敬していた大村順さんも「一緒に働きたい!」との本人の要望でまさかの入社。4人で新たなスタートを切りました。自身の後輩にあたる清水が入社したこともあり、一人のデザイナーからディレクターへと立ち位置の変化を意識し始めましたね。スタッフが増えたものの、売上と作業量が比例せずに苦悩しながらでしたが、仲間が増えていく感覚は素直に嬉しかったです。

実績を重ねて再び高山へ、凱旋

地元の高山にデザイン事務所をつくることが蒲の一つの目標だったこともあり、スタッフも増えたタイミングで僕と清水が高山に帰還。事業所を名古屋と高山の二拠点に増やして、僕が高山ワークスのチーフに就任しました。初日にはしゃぎ過ぎて宮川に落ち、骨折したことは今でも反省しています。

 

高山商工会議所青年部会(YEG)にも入会し、地元で新たな繋がりができました。おかげさまで仕事も忙しくなり、様々なイベントに参加できないことが増えたのは贅沢な悩みですね。

今年の1月には本町一丁目に高山ワークスを開設しました。古民家をセルフリノベーションした、風情あるお気に入りの事務所です。4月には新たにスタッフが二人入社し、総勢6人で新生ゴーアヘッドワークスとして日々ゴキゲンに働いています。

 

 

高山の好きな景色は親戚の家の近くの名もなき公園ですね。「かくれん慕」から江名子川沿いを上がっていった先にある小さな公園で、そこのベンチに座って高山の風土を感じながら、将来を深く思い馳せたんです。青春の一ページ。

あれから10何年、相変わらずたくさんの課題や目標が目の前に山積みですが、今は不安よりも期待が勝っています。

飛騨でデザインする未来は、還元

仕事も順調に進んでいく中で、デザインの仕事に対するさまざま不満や疑問が湧いてきました。AI(人工知能)の発達によって写真から簡単に似顔絵を制作できたり、素人でもアプリを使ってそれなりのデザインが作れたり……。AIの発達で消えていく職業ランキング上位に、「デザイナー」が入る理由も分かります。

しかし、デザインは人と人をつなげる「ビジュアルコミュニケーション」。人間がつくってこその仕事だと思っています。

 

現状、デザインやイラストといった仕事は広告業界では下の層の存在。お客さんとの距離が意外と遠い職業です。自分が制作したデザインなのに実績として報告できなかったり、デザインの成果や反響を知ることも意外と少なかったりします。

理由として、ほとんどのデザイナーは企画力や営業力が乏しいことが原因だと考えています。言われたものをただ制作するのではなく、自分の意見と知識と想いを持ってお客さんに提案ができるようになることが理想ですね。

 

そもそもデザインという仕事は分かりにくいです。特に高山だと、看板屋や印刷屋しかなかったから「それでお金を取るの?」とか「ちょっとタダで描いてみてよ」そんなことも散々言われてきました。でもそこは技術の対価を尊重して、還元してほしい。描く時間が5分でも、それまでの人生の積み重ねがあってこそ、その絵が描けるんです。いろんな人に知ってほしいし、そのためにはモノや成果で価値を示していきたい。

自分のデザインでお客さんの笑顔が見れたら励みになり、反響を感じられたらやりがいに繋がる。表面上のデザインにどこまで奥行きを出せるか。自分のデザインやイラストに自信を持ったデザイナーを、この飛騨の地で増やしていくのが僕のミッションです。その結果、飛騨の未来の創造に還元できるのなら最高ですね!

常に謙遜しながらも、明るく冗談を交えながら自身の半生を語る竹本さん。目の前の壁に等身大でぶつかってきたその姿に、多くの若き飛騨人は勇気が湧いてくるはず。

人間本来の創造力が求められるこれからの時代、竹本さんが伝えたい想いは飛騨の地の未来に直結しています。

連絡先

竹本純(たけもとじゅん)

https://www.facebook.com/takemoto0513

株式会社ゴーアヘッドワークス

ホームページ:https://www.goaheadworks.com/


<高山ワークス>

住所:岐阜県高山市本町1-38
TEL 0577-36-1001 / FAX 0577-57-5445
営業時間:9時~18時 (定休日:毎週日曜/第2・第4土曜/祝日)

この記事を書いた人

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丸山純平

丸山純平(まるやま じゅんぺい)
高山市出身。株式会社ゴーアヘッドワークス 企画/ライター
ヒダストのほぼ全ての記事を書いています。
最近は飛騨ジモト大学の事務局も担当。
一緒に飛騨を盛り上げたい方募集中!好きな食べ物はチーズケーキ。