デジタルとアナログを超えた、“半農半IT” という生き方 ー たぐちよしひろ(Webコンサルタント兼Webデザイナー)

飛騨高山在住、ホームページ制作業を営むたぐちよしひろさん(39歳)は、高校時代に黎明期のインターネットと出会い、その可能性に衝撃を受ける。その後、IT技術の急速な進化と共にこれまでの人生を歩んできた。

 

「インターネット」というデジタルな世界を探求することから始まり、「こころとからだ」というアナログな世界を経由。それらが融合した先に見えてきたものとは?

 

ネットとリアルとが交差しながら織りなす人生のストーリーを、ぜひお楽しみください。

HIDA NET代表・あぶらえばたけ主宰 たぐちよしひろ

1981年、高山生まれ、高山育ち。 18歳で上京してから20年以上、ITを生業とする。36歳のとき、飛騨にUターン移住。

移住前は、リクルートホールディングスの新規事業開発室でプロダクトマネージャー。専門学校のヒューマンアカデミーでWebデザイン講師として教育にも携わる。フリーランスとしても、中小企業のITコンサルティングなどを多数手掛ける。

移住後は、在宅リモートワークで都内メガバンクのUXデザイン(アプリ企画設計)を担当。フリーランスとしても、大手映画館チェーンのWebディレクターを長年務めている。現在は、地方の中小企業向けネット戦略コンサルティング・Web制作にも力を入れている。

革命的だったインターネットとの出会い

死ぬか生きるかの難産で生まれ、小さい頃から体は弱いほうだった。両親はそれぞれ事業を持つ経営者で、食卓では経営の話が自然と耳に入ってきた。両親とも忙しく、独りで過ごすことも多かったという。
お面に「キン肉マンを描いてね」という先生の指示をガン無視してドヤ顔の園児。(左から2番目)ー たぐちさん提供

小学生のは成績優秀でしたが、全く勉強しなかったせいか、中・高と進むにつれ落ちこぼれていきました。高校生になると、無気力になってだんだんと不登校になります。日々悶々としながらも、友だちと遊び呆けていましたね。

 

そんなとき、新しいもの好きの父が、当時話題だった『Windows 95』の中古パソコンをもらってきます。得体のしれない「箱」になんとなく興味を惹かれ、意味も分からず手探りでイジっていたところ、その中にもう一つの「世界」を発見したのです。

これがインターネットとの出会いでした。


インターネットが革命的だったのは、飛騨の山奥の高校生でも全世界に情報が発信できるようになったことです。それまで一部の巨大メディアしか持ち得なかった特権が、自由に使えるようになった。今でこそ当たり前ですけどね。


物心ついた頃からゲーム三昧だったんですが、ネットの
革命性を理解してからはゲームを一切やめて、ネットにのめり込むようになりました。

リアルでは不登校、ネットでは有名人

吉城郡国府町の田園風景の中育った。ー Photo by Seth Vidal
不登校にネット依存――普通なら問題視されがちなケース。しかし、ネットに大きな可能性を感じていたたぐちさんは、不登校のかたわら独学でプログラミングを習得。今でいうTwitterのようなサイトを個人で立ち上げる。


情報の発信者と受信者が対等で、双方向のコミュニケーションができるという点も、ネットならでは魅力です。


そこで、当時まだ少なかった
「音楽」をテーマにしたコミュニティサイトを立ち上げました。全国からファンが集まってきて、コミュニケーションが生まれていく。その場が生き物のように成長するのが楽しくて、夢中で作り込みました。

今のお仕事の基礎は、このとき出来上がったと言っても過言ではありません。


そのコミュニティサイトで出会って、結婚まで至ったカップルも何組かいるらしいです(笑)。のちに上京して独り暮らしを始めたときも、ネットでつながっていた仲間がいたので、とても心強かったですね。

「お前は学校来なくていいから」

無事高校を卒業し、東京の有名な専門学校に進学。当時としては画期的なITビジネスを総合的に学べる学科だったが、すでに自身のサイトで実務レベルの経験を積んでいたたぐちさんにとって、新しく学べることは少なかった。
上京してキャンパスライフを送るはずが……。ー Photo by Postown

あるとき、先生から呼び出されます。態度も悪いし怒られるのかなと思ったら、「お前は学校来なくていいから、インターンしてこい!」と。学校側の判断で、IT企業に送り込まれることになりました。いきなり最先端の現場に放り込まれ、即戦力が求められます。付いていくだけで必死でしたが、学びの量としては半端なかったと思います。

 

卒業後、インターン先の企業にそのまま就職したたぐちさん。Webデザイナー・エンジニア・ディレクターとして活躍し、入社から1年、大手クライアントのコンサルティング業務を任されるように。


当時、ネットの通信速度が進化し、一部の回線で動画が見れるようになってきたタイミングでした。「これからは動画の時代だ!」と意気込んで、ある動画サイトの立ち上げを企画。提案は採用され、制作・公開までこぎ着けたのですが……。約20年前といえば、まだYouTubeすらなかった頃。時代が早すぎたのか、結局泣かず飛ばずでした(笑)。

社会人としては未熟でしたが、ネットの可能性を探求する日々は充実していました。

ITオタクから健康オタクへ

健康オタクになって、玄米(3分づき)をはじめた。 ー たぐちさん提供
ITという武器を持ってしても、ハタチの若者が大企業のベテランと対等にやりあうのは、相当なプレッシャーがあった。


胃は痛いし、ずっとお腹を下しがちで……。いま考えたら原因は完全にストレスなんですけど。当時は全く自覚がなくて。

不摂生のせいだと思い込み、「からだにいいものを食べなきゃ!」と決意します。オーガニック食品などありとあらゆる健康食を試し、気付いたら20代前半にして立派な健康オタクになっていました(笑)。

 

オーガニック文化が根付いていたアメリカ西海岸に興味を持ったたぐちさんは、22歳でIT企業を退職し渡米。サンフランシスコでホームステイしながら周辺の現場を視察した。
いま東京で最先端のカフェ「ブルーボトルコーヒー」も、当時はバークレーで1軒の屋台だった。 ー たぐちさん提供

そこで、「ロハス」という概念に出会います。(編注:LOHAS = Lifestyles Of Health And Sustainabilityの略。人の健康と地球環境の両方を大切にする生き方。)最近話題のSDGs(持続可能な世界を目指す国際目標)や、エシカル(地球環境や社会的な責任を考慮した消費行動)の考え方に近いのかなと思います。

「消費者が変わらないと企業も変わらないし、企業が変わらないと社会も変わらない。社会が変わらないと環境は守れないし、環境が汚染されていたら本当の意味で健康にもなれない。……そうなっては何より自分が困る!」と考えていた私は、ロハスを広めようと画策します。

サンフランシスコでは語学学校にも留学していた。 ー たぐちさん提供


帰国後、ロハス関係のSNSコミュニティをいくつも立ち上げました。ロハスがちょっとした流行語になったことも追い風になり、10万人を超えるメンバーが集まったのです。
その後、東京・恵比寿でロハス関係のイベントを定期的に主催したりもしました。

強制シャットダウン!からの、バージョンアップデート

サンフランシスコから帰国後、美術大学に入学し「情報デザイン」を体系的に学び直していたたぐちさん。「デザイン」と「食」の両方が修行できると考え、老舗オーガニックレストランでデザイナーの仕事もはじめることに。数店舗あった系列店のデザイン業務を一手に引き受け、調理のヘルプにも入るなど、多忙を極めていた。
当時の職場があった六本木ヒルズ。

なんせ健康オタクでしたから、前よりは健康になっていたつもりでした。でも、実態はストレスに蓋をしただけだったのかもしれません。

あるとき、無理やり休暇をとってロンドン・パリに旅行したんですが、帰ったあとも時差ボケが全然治らず。それがきっかけで、深刻な不眠症になっちゃって。ついには仕事にも支障をきたし、強制シャットダウン。

絶対安静で、1ヶ月の入院と1年間の休業を余儀なくされました。

それによって、大きな仕事のチャンスも失い、美大の卒業制作も諦め……。腐っていたら彼女にもフラれ(笑)、人生のどん底でしたね。

時間に余裕ができたたぐちさんは、取り憑かれたように読書をはじめる。もともと趣味だった心理学・仏教・整体など「こころとからだ」に関する本を中心に1,000冊は読んだという。

 

 


特に、マインドフルネス(昨今Google社でも取り入れている、座禅と心理セラピーを組み合わせた瞑想法)には影響を受けました。文献だけでなく、実際に色んなワークショップに参加したり。その過程で、自分自身と深く向き合うことになるのです。

(いくら健康オタクでも、こころを病んでしまったら意味がない……。あれ、そもそもこころってなんだっけ……。生まれてからずっと、自分のこころを無視してきたのかも……。)

いままで外へ外へと向いていた意識を、はじめて内へ内へと向けてみました。からだの奥のほうに耳を澄ましてみると、そこには微細な五感や様々な喜怒哀楽がうごめいていたのです。それまで “あたま” でしか生きてこなかった私が、本当の意味で “こころとからだ” につながり、地に足をつけて生きられるようになった瞬間でした。

物心ついたときからデジタル一辺倒だった私が、アナログな人間性を取り戻す時期だったのかもしれません。

大震災で生かされたデジタル根性

心身をアップデートさせ、再起動したたぐちさん。今度は大学の心理学部に編入・卒業し、カウンセラーの資格も取得。仲間とともに、カウンセリングやワークショップなどを行う「サロン」をオープンさせる。著名人も訪れるなど、その経営が軌道に乗りはじめてきた矢先に発生したのが、東日本大震災だった。
「サロン」マネージャー時代 ー たぐちさん提供


東京・渋谷で仕事中に、突如として揺れが襲ってきました。ビルの最上階だったせいかめちゃくちゃ揺れて、家具とかもばんばん飛んできて。本気で死を意識しましたね。

ライフラインは寸断し、電話も通じない中、インターネットだけはちゃんと生きていて、SNSで普通にコミュニケーションを取ることができました。

 

原発事故の後、テレビは充分な情報を流さなくなっていたが、その裏でネットには膨大な情報が飛び交っていた。ただし、情報が錯綜し混迷を極めていたのもまた事実だった。


とにかく「一刻も早く正確な情報を知りたい!」という想いで、ネット上の全てのニュースリソースから原発関連のニュースだけを自動で収集・配信するTwitterBOT(Twitter上で動くAIロボット)を作ることを思いつきます。

当時、IT業界からは距離を置いていた私でしたが、原発が爆発したその日に突貫工事で立ち上げました。宣伝など一切しませんでしたが、それでも5,000人のフォロワーが集まりニュースを提供することができました。

震災当時、東京・吉祥寺の井の頭公園近くに住んでいた。

災害時にもインターネットが社会に与える影響を目の当たりにしたことで、ネットの可能性を再発見します。これを機に、やっぱり自分にはITが必要なんだと気付き、改めてIT業界の仕事に本腰を入れるようになりました。

ちなみに、この時期まわり道して身に付けた心理学の知見は、今のコンサルティングやデザインの仕事にも役立っています。

イクメン、Uターンするってよ

大震災の年に結婚、翌年に長女が誕生。理想の子育て環境を求め地方への移住を検討するなど、急激な環境の変化が起こっていた。
Photo by granowa photo studio


赤ちゃんの時期は一生に一度。成長したあとに「もっと一緒にいたかった」って後悔は絶対したくないんです。なので、仕事を在宅のリモートワーク中心に切り替え、できる限り育児に専念しました。

 

次女も産まれ、長期的な子育て環境をどうするか夫婦で話し合ったとき、「自然が豊かでのびのびと暮らせる飛騨がいいのかも」という方針で一致。最終的には「移住するのとしないのと、どっちが面白い人生か?」で決めました。

18歳で単身上京してから18年後、36歳で家族を連れてUターン移住することにしたのです。

 

移住前、大企業にも所属していたたぐちさん。職場のホームページにも写真が採用された。

移住前は夫婦ともに比較的安定した職についていて、それを手放すことへの不安もありました。一方で、遠隔のリモートワークが広がってきた時期で、地方にいても東京の仕事ができることがひとつの安心材料としてあったんです。今では、ネットを使ったテレビ会議も当たり前に行なっています。

 

移住後、崖の上の古民家に自宅兼事務所を構えた。乗鞍の眺めは最高だが、「雪が積もると車が登らん」と笑う。 ー 月刊BLESS提供

スマホの普及によって、地方のニッチなものがどんどん可視化されている時代です。ひとつひとつはちっぽけかもしれませんが、全国津々浦々の多様性こそ、これからの日本を支えていくポテンシャルがあるんじゃないかと考えています。

飛騨のソウルフードに魂をそそぐ

田口さんが飛騨に移住したきっかけのひとつに、飛騨の伝統食「あぶらえ(えごま)」の存在がある。

子どもの頃、祖父・祖母の家によく預けられたのですが、そこでいつも草餅(よもぎ餅)を焼いてあぶらえのタレで食べさせてくれたんです。なんとも言えない複雑な香ばしさが美味しかったのを覚えています。

最近、飛騨でもあまり見かけなくなってきたあぶらえ。「五平餅はあぶらえに限る」 ー たぐちさん提供

シンプルにあぶらえが大好物で、あぶらえの五平餅をしょっちゅう食べていました。が、18歳で上京したとき、東京にはあぶらえが無いと気づきショックを受けます(笑)。実家の母からあぶらえのタレを送ってもらいしのぎました。

そして今、飛騨であぶらえの五平餅を買えるお店が、ほとんどなくなっていることを知っていましたか?

消滅しつつあるあぶらえの食文化に危機感を持ち、それを守りたいと考えるようになったたぐちさん。あぶらえ栽培をはじめ、あぶらえ文化の復興・継承活動にも精力的に取り組んでいる。

 

あぶらえの活動が新聞にも取り上げられた 2020年1月23日付「中日新聞」

あぶらえをひとつの文化として守っていくためには、進化し続ける必要があると考えています。もちろん郷土料理も大好きですが、それだけでなく、例えば「インスタ映え」するような新しいレシピがあってもいいと思うんです。

2020年にはそれらをまとめたレシピ本を自費出版する計画で、いま多数の関係者にご協力をいただき制作を進めています。

 

たぐちさんは現在、あぶらえレシピ本の出版資金を募るため、2020年3月9日までクラウドファンディング(インターネットで支援金を募る仕組み)を行っている。

 

高山市長とあぶらえについて会談。2020年2月10日付「高山市民時報」


将来的には、あぶらえのお祭りを開催するのが夢ですね。単なるイベントでなくて、れっきとした「祭り」がいいんです。私たちに身近な高山祭も、地域住民が代々守り続けてきたからこそ世界文化遺産にまでなったんですよね。あぶらえも、文化として後世に残すためには何かしらの「祭り」が必要だと考えています。

私が子どもの頃あぶらえの虜になったように、100年後の飛騨の子どもたちにもこの味を渡していけたら、本当にありがたいことです。

 

社会的な活動をしていると「偉いね」と声をかけられることもあるそうですが、「極論は自分のためなんです。あぶらえがなくなったら、何より自分が困りますから。ある意味、自己中なのかもしれません(笑)」インタビューの最後に、たぐちさんはそう語った。

 

ネットをうまく活用し、「そのとき自分が一番やりたいこと」を実現するたぐちさんの生き方は、高度情報化社会を生きる私たちにとってとても参考になるものである。

 

まだまだこのような生き方は新しいスタイルだと言えるし、本人も「ハイリスク・ローリターンだからオススメはしない」と冗談めかして笑うものの、非常に軽やかに柔軟に生き方を変化させながら、常にその心は満足しているという印象を受けた。

連絡先・ホームページ

HIDA NET 〜ネット戦略コンサルティング〜
https://www.hidanet.jp/

あぶらえばたけ 〜飛騨えごま復興プロジェクト〜
https://www.hidaegoma.com/

あぶらえレシピ本出版の支援金を募集するクラウドファンディング
飛騨から「あぶらえ」が消える?!レシピ本出版で、飛騨の食文化を守りたい!
https://faavo.jp/hidatakayama/project/4210

この記事を書いた人

ライターMEGU

ライターMEGU

ライターMEGU (あかおめぐみ)
フリーライター、カウンセラー、中日新聞高山北部専売店記者、マリエクチュールスタッフ

高山生まれ高山育ち。文章を書くことと対話が大好きです。