古い町並みで生きる旦那衆の心粋 ー 坂口竜也 ( 坂口屋 5代目 )

 

飛騨高山の古い町並みで生まれ営む、明治23年創業「坂口屋」5代目 坂口竜也(さかぐちたつや)さん。

一見華やかな観光の中心部。しかしそこに住む人じゃないと分かり得ない苦悩と、秘めたる熱き想いに迫りました。地元民こそ必見の記事です!

祭りの日に産声を上げた、生粋の祭り人。

僕は春の高山祭が開催される4月14日の夜、ちょうど夜祭が終わって各屋台が屋台蔵に戻った頃、古い町並みにある岩佐医院で生まれたんです。父が大のお祭り好きのため周りがまさかと噂をしていたみたいですが、予定より2週間遅れて見事に祭りの日に産声を上げましたね。僕の町内の屋台である「龍神台」から「竜也」と名付けられました。

 

そうして明治23年創業「坂口屋」の5代目長男として生まれ、必然的に跡取りになる宿命ではあったのですが、薄っすらと意識があったくらいですかね。小さな頃から屋台に乗り、祭りが大好きな、元気で活発な子ども時代を送りました。

 

中学校ではひたすらバスケットボールに打ち込んでいたため、バスケの強い高山工業高校に進学しました。学科はインテリア科で、家業を継ぐなんて当時はまだイメージできていなかったです。でも卒業時に、恩師であるバスケの顧問の先生が東京の創作料理店を紹介してくださり、そこで3年間修行してきました。大好きなバスケのご縁から料理に携わるようになり、自然と好きになりましたね。

 

東京で働いて一度地元に戻ったら、中学・高校のバスケメンバーと再会し、勢いでバスケのチームを作ってしまったんです。それがきっかけで高山に根を下ろして、実家の家業を手伝うようになりました。おかげさまで常に忙しい日々で、それが自身の活力にもなっていきましたね。家業を手伝う中で、ここを継ぐんやろなと年々意識し始めていました。今になって思い返してみると、そうした偶然が重なって自身の在るべき姿へと導かれていたのですかね。

 

 

元祖「飛騨牛にぎり寿司」に込めた想い。

元々坂口屋は宿屋でして、明治中期の創業時は行商の方などが宿泊していたみたいです。宿泊客の減少から40年ほど前に、宿屋の店先で「甘味処唐子」をオープンしました。当時周辺では甘味処が少なく、おぜんざいをメインに提供し始めたらこれが宿屋以上に繁盛したんですね。ちょうどその頃、宿泊客の減少や消防法の改正もあったため、思い切って昭和58年に宿屋を廃業し、「甘味処唐子」に加えて新たに御食事処「坂口屋」として飛騨牛や郷土料理を提供し始めました。

 

 

しばらくすると周辺でも甘味処が増え、また御食事処も増え、一時期売り上げが伸び悩んだんです。観光客の流れも変わり、昔はお金をいっぱい使って豪華な食事をする観光スタイルだったのが、今では食べ歩きがメインになりましたからね。また当時は、飛騨牛を食べようと思ったら、ステーキやすき焼きなど高価な選択肢しかなかったんです。もっと気軽に飛騨牛を味わって欲しい。そんな強い想いから、食べ歩きに適したメニューを父が色々考えた結果、「飛騨牛にぎり寿司」を発案しました今では飛騨牛にぎり寿司を店先で提供するお店はたくさんありますが、「坂口屋」が元祖なんです。

 

実は江戸時代に、屋台寿司が立ち食いスタイルで爆発的に広まったんです。気軽に寿司を食べて、帰りに暖簾で手を拭いて行く。その暖簾の汚れが繁盛店の証だったんですね。飛騨牛のにぎり寿司自体は、高山のお寿司屋さんでは昔からありました。でも高級なお寿司屋さんには頻繁に行けないですよね。その想いから江戸時代に立ち返り、店先での提供に繋がったんです。

 

一番の工夫は、飛騨牛にぎり寿司を提供する際にエビせんべいをお皿にすることです。食べ歩きの弊害で、団子の串などのゴミがひどいんです。だからできる限りゴミが出ないようにとの願いが、エビせんべいの食べれるお皿に込められています。

 

御食事処では飛騨牛と飛騨そばのどちらも味わえる「牛心あればそば心」が、当時から愛されている看板メニューです。朴葉味噌のステーキも根強い人気があります。でも今となってはどこでも飛騨牛は食べれるから、そろそろ次の広まりそうなメニューを模索しなきゃと思っています。父親のように、新たな飛騨高山の名物を生み出したい使命感はありますね。

あなたの想いを文字にする「書想家」

東京で3年間修行した時のお店の社長が、独特な魅力ある字を書く方でした。お店のメニュー表もご自身で書かれていたのですが、その字だけでも不思議と美味しそうに見えるんですね。社長の字とデザインセンスに魅せられました。

 

その字体を真似できる人が少なかったのですが、僕は小学生の時に書道を習っていたこともあり、真似て書くことができたんです。そこから僕も書の魅力にハマりまして、坂口屋のメニューを書いたりしているうちにいろんな方の目に止まり、年賀状やポスターの字を書いてほしいといったご依頼をいただくようになったんです。気に入ってもらえるならいくらでも使ってもらえたらと思い、可能な範囲でご依頼を受けています。

 

様々なご依頼をいただく中で、もっと相手の気持ちを文字にしたいと思いました。例えば、子どもの命名を書にするご依頼などは、ご夫婦の生まれたお子さんへの想いが上手く僕の文字になればいいなとか、どういう想いがあってこれを書いて欲しいのかなとか、依頼者の心に想いを巡らせながら、僕の心も込めて文字を書きたい。そういった想いから肩書きを「書想家」としました。

 

書の活動の中でも、Facebook上で誕生日の友人には手書きのメッセージを送ってます。どうしても誕生日のメッセージって「おめでとう」と同じ文面が並ぶじゃないですか。その中でも僕の気持ちを少しでも伝えようと、手書きで想いを綴り始めました。年に一回はその人に向き合って、字に想いを込められる機会が嬉しいんですよ。これからも継続していきたいです。

 

一度、古い町並み近くにある高山信用金庫さんのショーケースで、「祭」を題材に写真と一緒に僕の書を飾ってもらったことがあるんです。あれは自分の魂が文字に乗っかった気がして、心に残っています。

 

 

今後書想家としてやりたいことは、飛騨のお酒のラベルや、飛騨に関わる商品のパッケージを書いてみたいんです。ご縁があれば、ぜひ僕の書を使っていただけたら嬉しいです。

残したい、古い町並みの旦那衆の心粋。

この10年で高山の観光や古い町並みは大きく変わってきましたね。GWやお盆はまだ日本のお客様が多いですが、普段の体感としては外国からのお客様が半分近くです。もちろんインバウンド(外国人)対応も頑張っておりますし、分け隔てないおもてなしの心で接しております。それでも年がら年中外国からのお客様が大勢お越しになると、日本のお客様が肩身狭くなっちゃいますよね。だから僕は変わらず日本の方にもアピールし続けたいです。

 

ちょっと厳しい言い方ですが古い町並みと言いつつ、新しいお店が多くなってきました。商売が最優先になってしまった、近代的な店内を見たりすると複雑な心境です。古いものを壊してしまったら、また何百年もかけて作るのは当然難しいですね。人間関係も同じです。店舗だけ借りて、朝と夕方だけ挨拶するような希薄な関係性では、どういう方かもわからなくて不安です。難しいかもしれませんが、理解ある方に住んでほしいんです。商売だけの通りじゃない。もっと古い町並みに溶け込んで欲しいんです。

 

もちろん今は様々な理由から、住むことも維持することも難しい時代だと分かっています。でもここに住んでいる人の息遣いがあってこその古い町並みです。建物も人間も「昔ながら」を残したい。もちろん時代に合わせて、試行錯誤していくことや新しく何かを生み出すことも必要です。だけど、時代が変わっても残すべきもの、守らなければいけないものがここにはあるんです。そのために自分にできることはやりますし、お互い助け合って守っていけたらと願っています。

 

古い町並みのお店は大体18時前後でどこも閉店します。観光客もすっかりいなくなった夜、誰も歩いていない古い町並みの通りに、明かりがポツンと灯っている風情がなんともまた良いんです。そこに入ってみると、明かりに照らされた中庭を肴に、心許した者同士がお酒をゆっくり飲み交わす宴会がおこなわれている。きっと江戸時代はそんな風景もあったはずなんです。あんまり遅くまで騒ぐわけでもなく、粋なお酒を粋な仲間たちと飲みたいです。そんな夜の坂口屋も良いですよね。

 

 

古い町並みは春・夏・秋・冬で様々な風情を感じられる町です。また朝・昼・晩で移り変わる、静けさと活気と情緒といった違う表情に、ここに生まれ育った僕でも日々魅せられています。この美しさと旦那衆の心意気(心粋)を次世代に残していくことが、僕の使命です。

 

古い町並みで生まれ育ち、旦那衆の心粋を受け継ぐ坂口さん。

飛騨高山の原風景を残していくその尊い使命感と生き様に、飛騨人の美しさを垣間見ました。

連絡先

坂口竜也(さかぐちたつや)

Facebook https://www.facebook.com/sakaguchiyaryu

御食事処 坂口屋

住所: 岐阜県高山市上三之町90

WEBサイトhttp://hidatakayama-sakaguchiya.com/

この記事を書いた人

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丸山純平

丸山純平(まるやま じゅんぺい)
高山市出身。株式会社ゴーアヘッドワークス 企画/ライター
ヒダストのほぼ全ての記事を書いています。
最近は飛騨ジモト大学の事務局も担当。
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