健康と本物を「だし」で伝え続ける ー 田口益男 ( 株式会社駿河屋魚一 アスモ店副店長 )

株式会社駿河屋魚一アスモ店で、副店長を務める田口益男(たぐちますお)さん。

独自の「だし講座」手書きの販促ポップなど、情熱あふれる活動を続ける田口さんですが、その半生の大きな変化は50代を迎えてから訪れました。

封建的な飛騨の男が変わったきっかけとは?
だしのように奥深い、田口さんのストーリーをぜひご覧ください。

古川やんちゃの、封建的な男だった幼少期。

飛騨市古川町で生まれました。昔から曲がったことはしなかったけれど、ワンパクでガキ大将だったな。

「古川祭」の起し太鼓の太鼓打ちになることが夢で、それだけは譲れなかった。当時は誰もが憧れていて、やっぱり古川やんちゃが根底にある誇りであり気質なんだよな。

 

負けず嫌いで、目立ちたがり屋の少年だったかもしれん。男はこうあるべき。そんな保守的で、封建的な考え方だった。数十年後、あるきっかけで大きく変わりますがね(笑)。

 

 

中学校ではサッカー部に入りたかったけれど、自分の家は貧乏だと思っていたから、お金があまりかからないバスケ部に入った。

 

バレンタインのチョコを、ぎょうさんもらうくらいモテたな。でも当時の自分を思うと、外見の良さだけでモテていたから、中身の人間性はあまりなかったかもしれん。女の子とは上手く喋れない、純やったかな。

 

地元の吉城高校に進学して、生徒会長をやりたかったんよ。まずは2年生の時に副会長、そして3年生の時に念願の生徒会長になった。でも大したことはできなんだな。

高校生活は孤独で、真の友達というのが感じられなかった。先生に相談したら「寂しさを抱えてるのはお前だけじゃないんやぞ」と言われて、救われたかな。今思い返せば、人間性の軸がなかったかもしれんな。

永井商店で、地域の食料品店を支える。

高校を卒業してからは「株式会社永井商店」に入社した。食料品の卸業で、当時の飛騨では有数の企業だったんよ。

入社して一年半で、当時全盛期だった「主婦の店」の担当を上司から引き継ぐことになって、これはチャンス。一生懸命働いていたからか、若造に舞い込んできた幸運だな。

 

ライバルの問屋に負けてたまるかと、毎日気合いを入れて商品を売りに行った。こっちは若造だからさ、舐められたくないんよ。ライバルがおったからこそ、夢中で頑張れたんだよな。

 

まだ市場に出ていない商品を仕掛けたり、自分が勧めた商品が売れた時は喜びがあるな。例えば「蕎麦の乾麺」。蕎麦って嗜好が広くて、人それぞれの好みがあるから難しい。当時は、蕎麦やうどんが主食という認識もなかった。だけど自分でも「これは美味しい!」と思う乾麺に出会ったら売りたくなってさ。ある八百屋さんが最初に仕入れてくれて、そこから「駿河屋魚一」さんも販売してくれたりと、徐々に飛騨全地区へと定着したのは嬉しかった。

 

もちろん仕事をする中で、辛いことや大変なことはある。でもほどほどに受け止めて、また次のチャンスに向き合えるかだな。

 

そうして29歳の時に、駿河屋魚一を担当することになったのよ。永井商店の社員でありながらも、駿河屋の一社員という気持ちで関わっていたけれど、先代社長の溝際清嗣(きよし)さんの影響が大きいな。随分と可愛がってもらって、おかげで今があるんや。

2代目清嗣さんに教わった「お客様第一」の信念。

清嗣さんのすごかったところは「お客様第一」を曲げなかったこと。取引先の永井商店から仕入れられない商品があったら、妥協せずに別のルートを探す。当然、太いパイプを築いている永井商店としては困るよ(笑)。清嗣さんの心情も辛かったとは思うが、悩んだ時は「お客様第一」の信念に従って決断するんだな。

 

品質の良い「ナチュラルチーズ」なんて、当時の高山で販売しているお店はなかった。しかし都会では当たり前にスーパーの定番となっている。駿河屋も何度も入荷するが、すぐに賞味期限切れになり廃棄・・。それでも売り続けた。

売れるまでに5年以上かかったかもしれん。清嗣さんは他にもいろんな商品を要求していた。バイヤーや俺でさえ「こんな高い物も?」と思う商品でさえも。「こんなもん社長は金があるから買えるんやな。生活のレベルが違うんや。」とバイヤーたちは言うんですよ。でも清嗣さんの真意はそうじゃない。「田口よ、高山には百貨店がないんだから、うちがその役割をしんならんぞ。」

 

レトルト食品の「サトウのごはん」が全国で始めて販売される時、メーカーが卸す地域を限定していて、高山では販売できなかった。アイスの「ハーゲンダッツ」もそうだな。でも清嗣さんは、お客様のために熱意で販売を可能にしたよ。地域の食料品店としての使命感があったな。

 

アレルギー対応の商品も、駿河屋がどこよりも早く仕入れた。今じゃ当たり前だけど、当時はなかなか売れない。廃棄ロスも出るし、現場としては不満が出てくる。だけど清嗣さんは言うんだ「しかし田口、うちが置かなければ、アレルギーを持った子どもとその親たちはどうするんや?」それは痺れたな。

 

一方では「田口よ、若い子が結婚してアパート暮らし、子どもを育てて生活していくためには食料品が安くてはならない。ただ安くてはダメだ。美味しくて鮮度も良くなければ。」と言うんですよ。その熱い言葉を聞いたときには、本当にすべてのお客様のことを考えているんだなと感動しましたね。

駿河屋魚一での挫折から、地道な工夫で花開く。

今から13年前にアスモ店の改装があり、その時にドライ製品の売り場に関して提案をしたのよ。それがな、提案した案が100%採用されたの。これってさ、面白くないのよ。本当は議論を重ねて作り上げたかった。これが駿河屋で働きたいと思った瞬間だな。そうして25年働いた永井商店を退職して、駿河屋魚一に入社した。

 

 

入社後は社長直属の部下として、すぐにドライ製品のバイヤーを任されたんよ。商品の知識には自信あるし、お客さんとのコミュニケーションは得意。だけど社員からは「現場もよく分からんのに」と熱い意見を言われて、挫折したな。

 

自分の想いで、こだわりの商品やこれは美味しいと思う商品を仕入れるけどなかなか売れんのよ。そうしたら会議でボロクソに詰められる。自分の実力がなかったから仕方ない。会社の中で浮いた存在になり、バイヤーから売り場担当へ、やがては平社員に降格された。

 

アスモから違う店舗に飛ばされても、地道にやるしかないわな。ポップ(店頭広告)を手書きでこだわり、心から勧めたい商品を紹介し続けた。目の前のお客様と、本物の商品に向き合い続けるしかないからな。そこには自信があったよ。

 

 

そうしたらアスモの売り上げが少し低迷してきて、俺が呼び戻されたんよ。その時に役員から「アスモは田口商店でよいから、自由にやってくれ」と背中を押してもらえた。花がようやく咲き始めたな。

 

こだわりのポップに加えて「田口の味の金メダル」マークも付け始めた。俺が自分の物差しで判断した、味がとても美味しく、価格以上の価値があり、原料や製法にもこだわりがある無添加商品。美味しい理由が明確に分かって、実際に食べて感動した商品にだけマークを付ける。

 

 

そうやって工夫し続けていたら、お客様から「田口さんのオススメする商品は間違いない」「田口さんの書いたポップを基準に買ってる」そんな声が増え始めたんよ。一番うるさかった社員からも「今のアスモがあるのは、田口さんのおかげや」と言ってもらえた時は本当に嬉しかったな。

真摯にお客様と、だしに向き合い続けた結果。

30歳を越えてから、不思議と化学調味料が気持ち悪くなったのよ。そのおかげで良質な商品のジャッジができるようになった。自分の口や味覚が変わったから無添加にもこだわり始めて、その延長でだしの奥深さにのめり込んでいったよ。

 

昆布や鰹節の売り上げは、全国的にどこでも下がっている時代。あんまり売れないジャンルだと、同業者も勉強しないのな。俺は逆に面白く感じて「だしソムリエ」の講座を見つけて勉強してた。最近では認定講師の資格も取得しましたよ。

 

 

勉強した知識を元に手書きのポップにこだわっていたら、アスモでは昆布製品と鰹節の売り上げが倍くらいになったのな。やがては北海道から「水産新聞社」がわざわざ取材に来てくれたんよ。調理レシピや成分表なんかも手書きで紹介していることを、真摯に取り上げてくれた。

 

 

そうしたら記事を見た、有名な昆布の専門家である喜多條清光さんから電話があって「今時こんなスーパーがあるなんて、勉強させてください」と日帰りで大阪から視察に来てくださった。喜多條さんは俺が勉強のために読んでいた本の著者で、それはびっくりしたな。

 

喜多條さんは本当に高名な先生なのですが、後日大阪に勉強しに行った時も「だしの魅力を多くの方に知ってほしいから、どんどん敷居を下げていきたい」とお話されていて、その姿勢と謙虚さに感動しましたね。

 

地道に真摯に誠実に、お客さんと向き合ってきたからさ。「根底の心を売りなさい」との教えの成果かな。本当にありがたいよな。自分の得意なことを突き詰めて、そこに後から人が付いて来てくれたんだな。

大嫌いな異業種交流会で、変わり始めた53歳。

大嫌いだった異業種交流会に参加し始めたのは、3年くらい前やな。

正直、仕事と多少の趣味があれば定年後も充分だと思っていたのよ。でもアスモにお越しくださるお客さんの中には、90歳を越えても自転車で買い物に来る方や、80代でも背中がピッとしている元気な方々がいらっしゃる。

みなさんに秘訣を聞いたら、ボランティアや社会貢献を頑張っている方が多いのよ。俺も生涯現役で、いつまでも輝ける年寄りでいたい。そう思えたのはお客さんのおかげ。

 

そんな頃に、アスモにお越しになった石関七重さんが僕の人生を変えてくれた。石関さんに商品の説明をしたら、気に入ってくれたのか異業種交流会に誘ってくれたのな。そういう場には全くご縁がなかったけれど、せっかくだからと参加したら垣内無一先生と益田大輔先生がいらした。

 

須田病院の先生とは知らなくて、お二人が「医者がいろんな人たちと関わって、いろんなことを知らんと高山は良くならん」と仰るのを聞いて、こんな方々がいらっしゃるなんてすげえなと(笑)。他の参加者もみんながある方ばかりで、今では大好きな方々なんや。

 

自分でも成長したなと思えるところは、人付き合いにおいて年齢が関係なくなったこと。お恥ずかしい話、昔は一つでも年が違うと線を引いてた。上から目線の封建的だった自分が、すごく変わったな。年齢だけじゃなくて、男も女も関係なくなったよ。

生涯現役で「だしで感動!だしで減塩!食で健康!」

不名誉ですが、飛騨地方の塩分摂取量は日本トップクラスなんだよな。なんとかしんならんと「だし講座」を始めた。反響をいただいて、今は定期開催をさせていただいてます。

だしを取ることで減塩にも繋がるし、なにより本物の美味しさを味わっていただける。「だしで感動!だしで減塩!食で健康!」このテーマを伝え続けたい。駿河屋としても、現社長である溝際清太郎さんとしても、これから10年で「飛騨地方の平均寿命を2歳伸ばす」ことを目標にしている。地域のスーパーとしての使命感はハンパじゃないよ。

 

だし講座では、京セラの稲盛和夫さんの考え方フルート演奏なども披露している。稲盛さんの考え方を教えてくれたのは、馬印三嶋豆本舗長瀬公昭さん。前職が京セラの長瀬さんと食事に行った時に、稲盛さんが提唱している掛け算の公式「人生・仕事の結果 = 考え方×熱意×能力」を教えてもらった。

 

 

要は「熱意」と「能力」がプラスでも、「考え方」はマイナスがありうる。そうなると「人生・仕事の結果」もマイナスになってしまうんやな。これに心底共感して、だし講座でも必ず紹介している。

 

フルートは52歳の時に、一念発起して始めたんよ。当時の古川小学校は音楽活動が盛んで、俺もフルートを2年くらいやらせてもらってた。それ以来ずっとやっていなかったけれど、まずは自分が挑戦し続けんとな。

 

 

最近では同級生に会ってもさ、明るい話をしないのよ。「たわけ、これからやぞおめえ!」そんな思いで俺が頑張ることによって、自分だけじゃなくて誰かの勇気や力になれたら嬉しいな。

 

「あの頃がよかったな」や「あの時あれをすれば」とか、過去に戻ろうとする人がいるけどさ、今があるのは全ての過去があったからだよ。どんなに苦しく、悲しいことがあってもね。

例えばもしも、中学校でサッカー部を選んでいたら?そんな些細な選択でも、もしかしたら今とは違う仕事に就いているかもしれない。飛騨に住んでいないかもしれない。YESかNOか、小さな選択でも進む角度がわずかでも変わったら、たどり着く先は大きく変わるな。

 

先日も津田尚幸さんが主催した「全力失敗教室」に参加してきました。子どもたちに混じって、全力で挑戦して失敗を経験する。その成果として後日、こんな写真とポーズにも挑戦しました(笑)。

 

「思いは叶う」。逆に言うと、思わなければ何も叶わないし、実現しない。俺は定年後も、だしとフルートでボランティア活動を続けるよ。人はいくつになっても変われるから、人生これからやぞ。いつまでも現役で学び続けて、大好きな飛騨に貢献しんとな。

 

「田口さんがいるからアスモに行く」
真摯にお客様と向き合い続ける姿勢は、まさに地域に根ざしたスーパーのあるべき姿。

日々、進化深化を続ける田口さんの魅力は、多くの飛騨人の勇気と健康に繋がっています。

連絡先

田口益男(たぐちますお)
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株式会社駿河屋魚一
http://hida-surugaya.com/

 

この記事を書いた人

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丸山純平

丸山純平(まるやま じゅんぺい)
高山市出身。株式会社ゴーアヘッドワークス 企画/ライター
ヒダストのほぼ全ての記事を書いています。
最近は飛騨ジモト大学の事務局も担当。
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