あなたに、萌の存在を知ってほしい ー 勝田なお子 ( 高山病弱児を守る会「あかりんぐ」代表 )

 

飛騨三市一村の重度心身障がい児(者)の保護者で結成された、高山病弱児を守る会「あかりんぐ」の代表を務める 勝田なお子さん。重い障がいを持って生まれた萌ちゃんに寄り添いながら、日々率先して活動を続ける強い意志と願いとは?勝田さんの激動のストーリー、ぜひご覧ください。

長女として地道にコツコツ、頑張った幼少期。

高山市山田町で、4人兄弟の長女として育ちました。ちょっと複雑な家庭環境だったので、目立たないように大人しくしながら、家事全般や下の子の育児にも積極的に協力していました。趣味にしているミシンも、小学生の頃から縫い物を任されていた影響です。

 

2個下の妹が陸上でインターハイに出るくらい優秀で、正直コンプレックスがありましたね。そんな私が飛騨高山高校に進学して、バドミントンを始めたら東海大会まで行けたんです。部活の顧問が、練習への参加姿勢や、学業の成績を加味して大会メンバーを選ぶ方で、地味だけどコツコツ頑張ってきた日々が報われました。ようやく少し自信がついた瞬間です。

 

小さい子の面倒を見るのが好きだったので、保育士を目指して大垣女子短期大学の幼児教育学科に進学します。当時の勤労学生という制度を利用して働きながら短大に通い、保育士と幼稚園教諭の資格を取得しました。

両親からは高山に戻って来いと言われていたのですが、すごくお世話になった女子寮の寮母さんから「寮の世話役係をやってくれんか?」と頼まれて、そのまま大垣に残って働かせてもらいました。親にはど叱られましたけどね(笑)。

 

ただ両親もそれなりに年齢を重ねていたので、23歳くらいの時に高山に戻ってきます。ですが、保育士の仕事が全然見つからなくて、病院の看護助手を経てようやく託児所の仕事に勤めました。その後は結婚を機に仕事を辞めて、飛騨市河合町へ移住します。人生の大きな大きな転機は4人目の子ども、萌の出産で訪れます。

 

4人目の萌の出産、消えない不安とモヤモヤ。

萌の出産の際には立ちくらみや胎盤出血もあって、妊娠中から入院していたんです。ようやく産まれた時も「オギャー」と泣かなくて、一週間ほど目も開かない。ミルクを吸う力もなくて、一ヶ月経っても首が座らない。明らかに上の子達とは違っていました。

 

毎週小児科を定期受診していましたが、「赤ちゃんの発達は人それぞれだからね」とずっと言われ続け、原因も症状も分からないからモヤモヤが消えません。この不安を誰に話していいのかも分からず、人に聞かれるのも辛いので、なるべく人に会わないように過ごす日々・・。

 

徐々に明らかになることも増えてきます。産まれてからずっと、オムツ替えが大変だったんです。萌は常に両足をクロスしていて、カエルみたいなM字にならない。たまたま違う小児科医が診たときに「この子、足が脱臼していない?」と指摘されて、整形外科にも行きました。

 

整形のお医者さんから脱臼の治療のため、肢体不自由幼児が集まる「岐阜県立希望が丘こども医療福祉センター」を紹介され、岐阜市での入院生活が始まりました。障がいの子が多く通っている施設で、問診票に気になることを全部書いたら、岐阜大学病院へ紹介状を書いてくださったんです。脱臼の治療の区切りがついた段階で、岐阜大に検査入院しました。

 

 

「萌ちゃんは付き合うてんかんだね!」衝撃の言葉。

検査の結果、脳梁(左右の大脳半球をつなぐ交連線維の太い束)が異常に小さいと言われて、「てんかん(発作を繰り返す脳の病気)」の疑いも出てきたんです。おかしい動きは発作かもしれないと萌の様子をすごく観察していたら、30秒くらい震えるような動作があるんです。入院して精密に検査した結果、「点頭てんかん(ウエスト症候群)」と診断され、「難治性で予後が悪い」と言われて、もうどうなるんだろう・・と思い詰めました。リハビリ室に行く時も周りから見えないようにタオルで隠して、私も俯いたまま通う毎日です。とても前向きになんてなれなかった。

 

高山の病院に戻って療養しますが、萌の発作は止まらなくてだんだんひどくなってきたんです。親戚が静岡にあるてんかんの専門病院を探してきてくれたのですが、今の担当医との信頼関係に響いたら・・となかなか言い出せず。そうしたら先生側から「専門の病院へ行ってみない?」と紹介されて、決心できました。

萌が4月に産まれてからすでに一年弱、上の子たちは主人や義母に任せっぱなしです。子どもたちも不安でしたよね。家族会議で事実を伝えてみんなで泣きながら、私と萌は静岡にある「静岡てんかん・神経医療センター」へ入院しました。

 

ごはんはなるべく食堂で食べる決まりで、周りは萌より重度のお子さんも多かったのですが、お母さんたちは明るい方ばかりでした。だんだん喋れるようになってきた頃、あるお母さんから言われたんです。「萌ちゃんは付き合うてんかんだね。一生、発作はあると思う。薬を飲んだら発作は収まる、でもそれで萌ちゃんが寝たきりでごはんも食べれない状況なら、少し発作が残ってもQOL(生活の質)を上げることを考えたら?」

 

衝撃の言葉ではあったのですが、治らないんだ!と逆に前向きになれました。じゃあ萌がより幸せに、毎日を過ごせるようにしよう。半年の入院で大きな発作はある程度収まり、高山へ戻ってリハビリに専念しながら、そのさじ加減を模索する日々が始まります。

 

前例がなければつくればいい。地道な陳情が実を結ぶ。

静岡の病院で「療育(障がいをもつ子どもが社会的に自立することを目的として行われる医療と保育)」に出会いました。療育を受けたいことを飛騨市の福祉課にもお願いしたんです。そうしたら「萌ちゃんのケースは過去に前例がないからできない」と言われ・・、ダウン症の子たちの事例はあるので、何回も福祉課に足を運んではその度に断られました。

しかし福祉課のある方が「私も分からないけど、一緒にやりましょ。」と言ってくださり、静岡での事例を参考にしながら少しずつ萌も療育だったり、様々な公的福祉のサービスを受けれるようになりました。萌が前例となったことで、萌の3つ下にまた重い障害を持った子がいらっしゃったのですが、スムーズに申請できたたいでよかったです。

 

その頃、病院のリハビリにも通いながら、同じような肢体不自由児のお母さんたちと多く出会いました。お世話になった担当の療法士の異動を機に、みんなでランチ会をしたんです。これがすごく楽しかった。定期的に集まろうよと「ハイジとクララの会(通称ハイクラ)」という、今も続いている互助会が始まりました。LINEグループに40名くらいですかね、当事者のお母さんたちはみんなすごく我慢して生きているんです。気楽に喋れる場所の尊さを感じながら、率先して会を開く自分がいました。

 

萌も同世代の子たちといると、表情がないように見えてやっぱり違うんです。せっかく河合町で生まれたのだから、同級生の中にこんな子もいるんだよと知ってもらいたい。そんな想いから飛騨市で初めて、看護師さん同伴で保育園に入園もさせていただきました。全国各地いくらでも事例はあります。後々聞いた話ですが、役所の中でも賛否は分かれていたそうです。でも「萌ちゃんにも保育園に通う権利がある!」と強く主張してくれる方もいらっしゃったそうで・・、本当にありがたいですね。

 

そうして保育園に通わせていただき、小学校に上がるタイミングでまた悩みました。飛騨市には支援学校がなくて、古川小学校の隣に3年後くらいにできる予定だったんですね。この時ありがたかったのは「それまで古川小学校に行くのはどうや?」と役所の方に提案していただいたことです。市の教育委員会の方と一緒に先進事例の視察を重ねながら、支援学校ができるまでの3年間、古小の中の支援学級に通わせていただきました。そのおかげで萌の存在を子どもたちに知ってもらえて、「萌ちゃん!」と恐れずに今でも声をかけてもらえるのは幸せだなと感じます。

 

 

「あかりんぐ」として、安心・安全、快適、理解される地域へ

飛騨三市一村の重度心身障がい児(者)の保護者の集いである「高山病弱児を守る会」の代表を、3年ほど前から任されています。なんだか会の名前が堅苦しいですよね(笑)。そこで受け継いで2年目頃から新たな会の名前を考えて、今年度から「あかりんぐ」とみんなで決めました。

子どもに病気や障がいがあっても、安心・安全(あ)、快適(か)、理解(り)される地域になって欲しい。そんな想いを込めて、行く先を照らす「あかり」と、みんなで輪になって助け合う、車椅子の車輪の「輪(りん)」、さらには繋がり進み続ける「ing」を加えました。

 

会員同士の交流の場である「和茶輪茶(わちゃわちゃ)会」を2ヶ月に一度開催しながら、年に一度クリスマス会を開いています。開催にあたって、ボランティアさんをお願いするかしないかで議論になったんです。反対派はやっぱり申し訳ない気持ちがあったみたい。でも一人では生きていけないんだから、そこで申し訳ないって思うのは違う気がする

 

Facebookで募ったら、10人くらいの方が自主的に参加してくださったんです。おかげさまで家族含めて、みんなが楽しめるクリスマス会になったのですが、ボランティアさんから最後に「ありがとう。」と言われました。感謝の念は尽きませんが、もっと頼ってもいいんだなと思えた瞬間の一つです。

 

 

昨年のクリスマス会では着付け師の津田亜樹さんから企画提案をいただき、肢体不自由児用の着物着付け体験をさせていただきました。その後、今年に入り浴衣のファッションショーの話がありましたが、体調が悪かったら出られません。そこで着付けをした写真を、プロのカメラマンである今村龍二さんに撮影していただき、今年は各地で写真展を開催しています。多くの方から「勇気付けられる」とメッセージをいただく度に、この子たちの姿が誰かを元気付けている、そんなエネルギーを持っているんだなと感じています。

 

 

 

感情論や愚痴で終わらない。多目的トイレの調査。

差別的な言動に出くわすことも多々あります。でも分からないから、知らないからなのかなと思い、まずは私たちが積極的に外出する姿勢を大事にしています。知ってもらった方が生きやすいですからね。

 

どんどん外出を重ねてみて分かったのですが、道中の段差は周囲の助けでなんとかなるんです。しかし、オムツを変える場所の少なさは大きな課題でした。多目的トイレに入っても、萌は身長が140センチあるので、ベビーベッドじゃオムツを替えられません。

あかりんぐの会長になってから、飛騨市長と面会したんです。その際に「飛騨市としては年に一箇所ずつ改修していきます。飛騨市が変われば、高山市も変わるからね。」と飛騨市長自ら仰ってくださいました。本当に嬉しかったですね。

 

私たちとしてもできることがしたいと、飛騨地域の多目的トイレの調査活動を始めました。もう一つ大きなきっかけとなったのは、観光で高山に訪れた車椅子の友人です。古い町並みを観光している際にオムツが濡れて替えようとしたけど、近くに大きなベッドがついたトイレがなくて、古い町並みから高山駅まで戻ったそうなんです・・。その話を聞いたときに、誰にでも優しい観光地になってほしいと心から願いました。

 

そうして調査して制作したバリアフリートイレのマップを、Hidamommyさんのサイトにも掲載していただきました。代表の周真希子さんから「お母さんの腰の高さに合わせて設置してあるけれど、大概の赤ちゃんは生後半年も経つと急に動くから、落ちたら危険な高さは怖い。」と教えてもらったんです。決して、自分たちだけの問題ではなかったんですね。

 

 

物理的に変えるところ、人の気持ちや意識を変えるところ、どちらも大事ですが物理的な変化にはお金がかかります。みんなの税金を使うんだから、感情論や愚痴で終わっちゃダメですよね。「自分の子」だけじゃなくて「私たち」や「こんな人たちも」と、具体的かつ大きな主語で伝える必要があります。そのために会としてちゃんと現状を調べて、本当に困っている人たちの声に気づいてもらう。現状の調査結果と様々な当事者の声をお伝えしたら、高山市の対応は早かったですよ。団体としての存在価値でもありますし、分かってもらえた喜びも大きかったです。

安心して生きて、活きていくために。私の使命。

飛騨の好きな場所は、国府にあるカフェのラスリーズさんです。玄関に段差があるのですが、必ずスタッフさんや時にはお客さんが乗り越えるために手伝ってくれるんです。物理的な段差はあるけれども、本質的なバリアフリーのお店です。段差がなくなると困る場合もあるから、なくすように求めることだけが正解じゃないんですよね。

 

 

例えば萌とコンサートに行くと、どうしても遠慮しがちな目立たない位置の席に誘導されます。無意識のうちに綺麗に仕上げようとしているのかな。そうした無自覚の枠組みや排除がきっとありますよね。ただ先ほど話したように、こうするべきという正解はないと思います。偏見を抱いて誰かを傷つけたりしても、優しさにたどり着く過程かもしれないですし。でもね、ご高齢の方からは「可哀想だね」って言われることが多いのですが、その度に「可哀想と思う、あなたの方が可哀想だな」って思っちゃいます(笑)。私は萌が可愛くて幸せで、萌も幸せだと確信しているから。

 

当然ですが、いつまでも私と萌がセットではいられません。いろんな方の応援やサポートを得ながら、私がいなくても生きていける子になってほしい。同時に私も、自分の人生を愉しんで、活きていきたい。萌が初めて2泊3日のショートステイを利用した時、22歳のもう一人の娘から「高校生の頃に、お母さんと二人でお買い物に行きたかった。」と言われたんです。萌だけのお母さんではない。分かってはいるけど、そのバランスはなかなか難しくて・・。でもそう言ってくれたのは、娘の勇気であり成長であるから嬉しいですね。

 

生きるってなんだろうね。ただ間違いなく私自身は、萌の存在で価値観が大きく変わりました。車椅子の子たちだけじゃなくて、高齢者の方や精神的な病気の方、それぞれ与えられた使命があるのかな。障がいや病気を隠したい人もいます。当時の私も俯いて、人を避けていました。だけどある方から「あんたには発信する役目がある。あんたが言わなきゃ変わらないから、嫌われてでも発信するべきや。私はずっと味方だから。」そう強く言われたんです。生意気かもしれないけれど、私たちの活動や発信で、後に続く子が少しでも楽に幸せに生きられたら嬉しいです。

 

 

力強く、でも優しく。自身の使命を語ってくださった勝田さん。

勇気を出して表に立ち続ける勝田さんの願いが、「安心して生きて、活きていくために」、未来の飛騨地域に道を創り続けています。

連絡先

勝田なお子(かつたなおこ)
https://www.facebook.com/profile.php?id=100006156436622

TEL:090-1474-8911(かつた)
お気軽にお問い合わせください。

この記事を書いた人

アバター

丸山純平

丸山純平(まるやま じゅんぺい)
高山市出身。株式会社ゴーアヘッドワークス 企画/ライター
ヒダストのほぼ全ての記事を書いています。
最近は飛騨ジモト大学の事務局も担当。
一緒に飛騨を盛り上げたい方募集中!好きな食べ物はチーズケーキ。