尊い命が、共存し合う飛騨へ ー 長田直子 ( 助産院なお 代表 / 助産師 )

高山市国府町で「助産院なお」を開業し、命の誕生の場に立ち会い続ける助産師の長田直子(ながたなおこ)さん。しかし看護学生だった当時は、お産の映像にびっくりして過呼吸を起こしたことも・・。そんな長田さんが語る、神秘に満ちた生命と人生。助産師の仕事の流儀、必見です。

「この子を助産師にしよう!」分娩台の母の直感。

高山市国府町で生まれました。実家が個人商店を経営していて、駄菓子や日用品、お惣菜などを売っていました。当時の年末年始はどこのお店もお休みで、各家庭は食材を買いだめしていたんです。小学校一年生の私はスキーウェアを着て、ソリにお豆腐を何丁も詰めて一人で訪問販売。「なおちゃん行くと売れるでいいぞー!」なんて両親に背中を押されて、でも楽しかったなあ。いろいろ挑戦させてくれたおかげで、おもしろく育っちゃいました。

 

「10年はやれ、じゃなきゃ好きも嫌いも分からん」が親のモットーで、いろんな習い事を長くさせてもらいましたが、私にヒットしたのは吹奏楽でした。当時の斐太高校の吹奏楽部に憧れて、どうしても斐高に入りたくて、一生懸命勉強して進学しました。この頃は「将来は音楽の先生になりたい!」と考えていたくらい。吹奏楽は今でも続けている一生の趣味です。

 

 

しかし卒業後は、高山赤十字病院看護専門学校に進学します。実は母の血液型がRh-で珍しく、出産のリスクを考慮して私一人しか産まなかったんです。そうして私が産まれた瞬間の感動から、分娩台の上で「この子を助産師にしよう!」と直感的に決めたらしい。でもそんな理由で「なおちゃんは助産師になるとよいと思う。」と言われても困りますよね(笑)。「なんで急に?」と衝突しながらも、従順だったのかその道へと進みます。

 

専門学校は全寮制で、先輩と一緒の4人部屋。二段ベッドの上で気を遣って静かに眠り、日中は採血の練習で先輩に血を抜かれる毎日。なんてところに来てしまったんだ・・(笑)。そんな思いもナースの白衣姿への憧れはやはり強く、日々頑張って楽しく学んでいました。

お産に恐怖を覚えた私が、なぜか助産師の道へ

今では助産師として働いていますが、当時の授業でお産の映像を観た時、私はびっくりして過呼吸を起こしました。母体から赤ちゃんが出てくるのが生理的に受け付けなかったんです・・。

 

先生に泣きながら「実習に怖くて行けません」と伝えたら「あなたはすごく良い感性を持っているから、否定しなくてそのままでいいよ」と言われたのを覚えています。なんとか実習には参加したけれど、やっぱりお産は怖い。トイレに篭って、逃げ隠れる時間もありました。

 

私がちょうど3年生の時に制度変更があり、助産師学校に進学できるようになったんです。「受けてみない?」となぜか先生が私に勧めてきまして、当然お産は怖いので即断りました。しかし「受けるだけ受けてみなさい」と強く推されて仕方なく受験します。面接では「私はお産が怖いので落ちると思います!」なんて正直に言ったのに、なぜか合格して岐阜県立衛生専門学校の助産学科に進学しました。

 

岐阜で初めての一人暮らし。入学してしまったらもう逃げられません。人生で一番ハードな一年間でしたが、必死になると慣れるもんですね。陣痛が来た妊婦さんに朝までずっと付き添った実習も、今となっては良い思い出です。

 

いっぱい勉強して、遊んで、恋をして・・結果、自分がだいぶ洗濯されて図太くなりましたね(笑)。そうして無事に卒業し、高山赤十字病院(日赤)で助産師として働き始めます。「お産に感動して助産師になったんですか?」とよく聞かれますが、全くそうじゃないからこそ人生っておもしろいですよね。

 

命が輝く瞬間へ、委ねる。

目の前の妊婦さんと赤ちゃん、二つの尊い命を預かるのに怖いなんて言ってられません。同時に矛盾するようですが、今でもお産は緊張します。その緊張感がないとこの仕事はできない。

 

「お産中は五感でとにかく感じろ!」そう先生にも先輩にも教わってきました。妊婦さんと赤ちゃんが最大限に力を発揮できるように、余計なことはしません。必要であれば背中を押し、走り過ぎていたら抑える。表情・息遣い・空気感、とにかく全てを観察して感じます。

 

そうして全身全霊無我夢中で支えていると、言葉を交わしていないのに赤ちゃんと通じ合う瞬間があるんですよね。もちろん知識や技術は備えた上で、でも普段の自分以上の力が発揮されるような。綺麗な言い方をすると命が輝く生まれる命と自分の命が融合するような感覚なんです。恐怖を超えて、神秘的です。振り返るとあんまり覚えていないのですが(笑)。

 

 

全てのお産に学びや気づき、感動があります。3日間かけて産んだ人もいたなあ。私自身も長男の出産は26時間くらいかかりました。上手く言えないけど、それぞれ必要な長さなんだと思う。お産を終えた時に「私、生まれ変わりました。今日は私の新たな誕生日でもあります」そう言ったお母さんもいました。情報や感情や痛み、複雑に絡まったものが自然に解けていくのでしょうね。

 

頭で考えた通りにはならないから、心や直感を信じて委ねる。お産も子育てもそうなんだろうな。それを直接感じ、魂で学ばせてもらっています。

 

長田直子として生き始める、きっかけの言葉。

21年間日赤に勤めたのですが一度、20代の終わりに大きな病気を患ったんです。仕事を3ヶ月以上病欠していて、これを機に仕事を辞めようか悩んでいました。ある日通院の帰りに薬局へ寄った時、そこで働いていた女性が声をかけてくれたんです。

 

どうやら日赤でお産をした方で、産後お乳を上手くやれなくて悩んでいた際に、私がアドバイスしたらしいんです。その方に去り際にいただいた言葉が衝撃でした。「長田さんにとってはたくさんの産婦の一人かもしれんけど、私にとっては忘れられない助産師さん。これからも仕事を続けてください」

 

自分はこんなにたくさん受け取って、生かされていたんだ。それまでは一方的に、教えてあげている感覚が強かった私にとって、大きな大きな気づきでした。そこから一人の「長田直子」として、生きるってなんだろう?できることはなんだろう?模索し始めました。私が生まれ変わった瞬間の一つです。

 

とはいえ病院での勤務は忙しく、休日のボランティアなら怒られないだろうと思い立ち、学校や保健施設などで助産師の仕事についてお話しする「命の講座」活動を始めました。高山赤十字病院の一助産師ではなく、長田直子として動き始めた大きな一歩でした。

 

トントン拍子で開業した「助産院なお」

今の事業の相方であり、看護学校の同級生だった中谷美穂さんが、先に助産院を開業しているんです。

ある日職場で上手くいかないことがあり、中谷さんへ電話したら「腹をさっさと決めて動かんとな、だんだんと気づかせることが大きくなるんやよ」と言われました。なるほど、次のステージへ進めということかと独立を考え始め、とはいえ親をどう説得するか悩み始めたところ、「自分の好きにやったらいいじゃん」とあっさりGOサインが出まして、あれよあれよという間に助産院の開業へと進みます。

 

助産院の開業にあたっては病院と提携契約の必要があり、その許可を得るのも難しいのですが、人事異動のタイミングも重なってトントン拍子で決まったんですよね。そうした不思議な流れに助けられ、2016年10月、国府町宇津江に「助産院なお」を開業しました。自宅出産のお手伝いが特徴ですが、実際は産後のお母さんの授乳や育児に関するご相談、ノウハウを学びに来られる方が多いです。

 

 

実は助産師学校に入学した当初に「いつかたくさんの人が集まってホッとできる、お家みたいな助産院を開くのが夢です」と公言していたらしく、夢が叶ったねと同級生から祝われました。私は覚えていないのですが(笑)。

 

あの頃の私の想いと同じで、「助産院」という枠やイメージには囚われたくありません。どんな世代の人でも集えて、みんなに役割と居場所がある拠点を作っていきたいです。

 

 

そういえば独立後に「看護学校の非常勤講師をやりませんか?」とお誘いをいただいたんです。音楽ではありませんが、高校生の頃の夢だった学校の先生も経験できました。本当に人生は不思議です。

「のくとまりマーケット」が「mamameparty」へ

私は物作りが得意じゃないけれど、マルシェに出店することは憧れの一つでした。古川町にある雑貨・花を取り扱う「いたばし生花」さんでそんな話をしていたら、たまたま商品を卸しに来ていた作家さんとも大盛り上がり。向かいの円光寺さんにその勢いで行ったら「ちょうどお寺に人が集まるイベントをやりたいと思っていた」と巡り合わせ・・じゃあやっちまうか!と「のくとまりマーケット」が始まります。

 

円光寺さんの境内をお借りして、不定期で開催しています。ハンドメイド雑貨が中心のフリーマーケットですが、助産院と同じくホッとできる、心がのくとまる雰囲気づくりを大事にしています。

 

学生時代に自転車で古川の塾に通っていて、当時の賑わっていた街中をよく覚えていました。結婚してから古川に住むようになりましたが、昔と比べたら寂しい人通り。活性化とまではいかないけれど、もっと人が集まれるように。そんな古川の町への思い入れもありました。

 

 

企画・準備に奔走しますが、ほぼボランティアの活動です。独立してからはなかなか続けられないから、違う形にしようかなと考えていた時に「Hidamommy」の二人に出会ってしまいました。代表の周真紀子ちゃんとは、初めて出会ったその場で意気投合。副代表の中野雅子ちゃんは一年前、のくとまりマーケット当日のなぜか撤収後に遊びに来てくれたんです。出店者さんみんな帰っちゃったから、とりあえず私が買ったパンをあげたご縁です(笑)。

 

 

そうして「のくとまりマーケット」を一つの母体に、Hidamommyの二人とNPO法人飛騨高山わらべうたの会代表の岩塚久案子さんの4人で「mamameparty」を10月13日に開催します。

飛騨地方最大級の子育てママ応援イベントです。もちろんお子さんも主役として、楽しめる仕掛けやコンテンツを準備しています。今回は飛騨市での開催ですが、高山市・下呂市・白川村と、飛騨地方をどんどん巻き込むためにも、ママたちの本気を見せたいと思います!どうぞお気軽にお越しくださいね。

競争じゃなくて、共存がいい。

古川と国府の境、線路と堤防の川向かいの農免道路から見える景色が大好きです。すごく空が広く感じて、天気が良いと御嶽を望める。不安や迷いがある時は朝に行くんです。靄の中に朝日が射して、稲の匂いが浮かぶ。大丈夫やさって包んでくれるような、私のパワースポット。

 

 

助産師仲間と描いた、理想の村構想があるんです。その村では自分が得意なことが各々の生業で、物や畑などの財産は、誰の所有でもなくみんなで共有するもの。村の中心に産屋があって、赤ちゃんが生まれたらみんなで喜ぶ。空から生まれて土に還っていくような、生も死も自然な形。そんな自給自足で循環型のコミュニティ

 

何が言いたいかって、競争じゃなくて共存がいい。医療でもまちづくりでも、保身・エゴ・プライドから対立したり蹴落とし合ったり・・目指しているところは一緒なのにね。

 

きっと次の時代は違う。今の子どもたちと関わる中で感じますが、競争心が少なく、互いに認め合うような優しい価値観ですよね。でも私たち40代以上はガチガチの昭和(笑)。競争社会を生き抜き、勝ち抜いてきた気合いと根性みたいな。そんな大人の意識や思い込みを変える方が深刻ですね。子育て支援よりも親育て支援なんだろうな。親が自己否定感が強くて満たされていないと、子どもに求めて依存しちゃうよね。

 

独立して助産院を始めたことも、「mamameparty」の開催もいつかのための練習なのかな。長田直子として生き始めてから、「こりゃまんだまんだ、だちかんな~」って、自分を客観的に感じられる瞬間が増えました(笑)。まあまだ45歳だから仕方ない。試されながら、手放しながら、生きているうちに叶えたいですね。

 

 

幾たびも尊い命の誕生に立ち会い、過去から未来へと命の連鎖を紡いできた長田さん。慈愛に満ちた長田さんだからこそ、みんなが心の底からのくとまる、共存し合う飛騨を力強く描いていきます。

連絡先

長田直子(ながたなおこ)
https://www.facebook.com/naoko.nagata.775

助産院なお
住所:高山市国府町宇津江2243番地14
営業時間:9時〜16時(土日祝日定休・完全予約制)
TEL:090-3307-0826 (ショートメール可)
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「mamameparty」
10月13日(土) 9:30〜16:00@飛騨市文化村
https://www.facebook.com/events/237100790302047/

この記事を書いた人

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丸山純平

丸山純平(まるやま じゅんぺい)
高山市出身。株式会社ゴーアヘッドワークス 企画/ライター
ヒダストのほぼ全ての記事を書いています。
最近は飛騨ジモト大学の事務局も担当。
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