飛騨古川に生まれ育ち、婚礼司会を中心にイベントや講演会の司会進行等で活躍中の森茂 聡子さん。
婚礼司会は新郎新婦にとってのハレの日の舞台で、すべての出席者に気を配りながら進行をしつつ、ハプニングにも柔軟に対応しなければならない、繊細な気遣いと精神的な強さも求められるお仕事です。
婚礼やイベントで、森茂さんが口を開く「瞬間」に居合わせる機会があり、ただ美しいだけではない、その声の深みのある優しさと魅力に秘められるストーリーとはどんなものだろう?と、興味を覚えました。
森茂さんの、優しい温かい言葉に彩られたインタビュー、ぜひお読みください。
引っ込み思案で泣き虫。それがきっかけで日本舞踊の初のステージへ
私は、飛騨市古川町三之町生まれです。
元々は吉城酒造だったと言われる蔵を改装した家で、「駒古文堂(こまこぶんどう)書店」を営む両親、9歳年上の姉、6歳年上の兄と一緒に育ちました。現在は「蕎麦正なかや」を兄が経営しています。
性格は引っ込み思案で泣き虫だったようで、それを心配した母が3歳の私を近所の日本舞踊の先生のところへお稽古に通わせることにしました。
初めての舞台は従兄の結婚披露宴。
「子守(こもり)」という演目をひとりで踊りました。堂々と舞台で踊る私の姿を見て両親は喜んでいましたね。
それからは、親戚の結婚披露宴では祝儀の舞を踊ったり、結婚式(祝言)では雄蝶雌蝶(おちょうめちょう)という盃事のお手伝いをするお役目を務めたり。小さな時から新郎新婦のお手伝いをしていました。
ステージに上がるときは今でもすごく緊張しますが、不思議なことに音楽が鳴り始めると勝手に身体が動き始めるんです。それは今の司会業も、約22年続けている「P.J.Y」というバンドの音楽活動でも変わりません。
中学校を卒業する頃までお稽古に通っていたお陰で、ステージ度胸がついたと思っています。
宮城保育園、古川小学校、古川中学校と進み、近いからという理由で吉城高校に進学しました。
最強放送部に所属した中学・高校時代
中学、高校と6年間放送部で活動し、私の「話す」歴史はここからスタートしました。
高校に入学してすぐ、高校放送コンテスト県大会に朗読部門で出場します。この時は、入賞にはかすりもせず(笑)。
顧問の先生の勧めでアナウンスに転向してみたところ、高校2年、3年と県大会で2年連続優勝し、全国大会にも出場することができました。
当時の放送部は、中学から一緒に校内放送を作り上げた仲間が揃い、テレビ、ラジオ、研究発表、アナウンスに朗読と、全ての部門で全国大会に出場する力がありました。高校総合文化祭では、全国で5校に与えられる奨励賞も部員揃っていただくことができたんです。
たくさん賞を貰って嬉しかったのですが、忘れられない悔しい思い出もありました。
各部活動の成績が学校の広報誌に掲載されたんですが、あまりにも賞を取り過ぎたせいか、放送部は個人名が割愛されてしまったんです。
「自分の名前が残らなかった」という出来事を、私はいつまでも握りしめていて、この事が後々司会者としての在り方を考える上で重要な意味を持ちます。
話すことを仕事にしたい。28歳での退職から司会者への道のり
高校卒業後、古川町役場で10年勤めました。充実感はありましたが、28歳で退職します。
高校時代の私には、アナウンサーになりたいという気持ちがありました。でも、「大学に行けないから無理」と、努力することもなく勝手に諦めていたんです。
役場職員として町主催のイベントや式典などの司会を担当させていただくうちに、「やっぱり話すことを仕事にしたい」という想いに火がつきました。
その頃、高山市内のホテルで司会を含む仕事ができるということを聞き、そのホテルに転職します。
結納から結婚式、披露宴までお世話をさせていただく婚礼担当として約3年勤めました。
当時は100人規模の大きな婚礼が多く、予約も毎土日入りフル回転の状況。婚礼当日は司会もしながらだったので、すごく大変でした。
しかし、こんなにも心と体が躍動した3年間を過ごせたのは、周りの人に恵まれ、助けてもらったからだと思います。
結婚を機に寿退社する時は、ホテルを離れたら大好きな司会の仕事ができなくなると思っていたので、すごく寂しい想いが残りました。
ところが、結婚の翌年に息子を授かった頃から、披露宴やイベントなどの司会を依頼してくださる方が何人も現れたんです。
私の司会する姿を知っていてくださり、ホテルを退職した私を実家の本屋までわざわざ探して来てくださったと聞いて、それはもう本当に嬉しかったですね。
息子が生まれてからは高山市内の旅館に13年間勤め、休日を利用して司会の仕事も続けてきました。
ありがたいことに、現在までたくさんのご縁をいただいています。
司会者として大切にするのは、「今ここにあること」
私は、言葉自体は「記号」のようなものと感じています。しかし、そこに想いが乗ると体温が加わり、似通ったバイブレーションを持つ人の心に響いて、まるで「生き物」のようになる。
言葉が記号に近いものとなるか、生き物に近いものとなるかで、受け取る方の気持ちにも変化があらわれます。
生身の人間として、内側の想いに灯をともすような言葉で、温度も空気感も丁寧に伝えたい。だからこそ、人の気持ちも深く理解したいと思っています。
というのも、私はある司会の現場で突然のハプニングに対応することが全くできず、進行表に従うだけの心ない司会をしてしまったことから、その方たちに悲しい想いを残してしまったことがありました。
それからは、私が美しく話すことよりも、まずは主役の気持ちに寄り添おう、その場の空気を体感し、誰が今何を伝えようとしているか?に集中しようと思ったんです。
高校生の放送部の頃、自分の名前が記録に残らなかった時はすごくがっかりしました。でも今は、私はあくまでも司会者だから、その司会者に我はいらない。大切なのは、「今この瞬間に意識を置く」ということ。今ここに意識があれば、その場の空気と一体となって、たとえハプニングが起きたとしても柔軟に対応することができます。
司会者としての自分を比喩的に表現するとしたら、想いと想いを繋ぐストロー。
想いと想いが繋がれた瞬間、何度も繰り返し思い出したくなるような一瞬が生まれます。その一瞬は想い返すほどに永遠になると思うんです。
今いただく仕事の大半を占めているのは婚礼司会。
人生の喜びのひとつ「婚礼というハレの日」、「ありがとう」と「おめでとう」が循環する場に立ち会わせていただけることが、私の人生の喜びです。
飛騨古川に根ざした私は、飛騨人の営みの一部になりたい
最近の私は、司会者である前に、森茂 聡子という飛騨古川のおばちゃんなんやさなぁ、と思うようになりました。
この飛騨古川に根ざした「私」は一本の木。その言葉は葉っぱだと思います。
飛騨古川の土壌、季節の移ろいの中にある風景を見たときに覚える感動、食べ物の美味しさ、寒い熱いの感覚、さらには私を支えてくれる人達が、陽となり風となり水となって、まるで一本の木を育てるように私を育んでくれた。私が発する「言葉」は私だけが育んだものではないと思っています。私のものであって、私のものではないという感覚です。
私がいま司会者としてステージに立てるのも、当時の部活動の仲間を含む、関わってくれた全ての人たちのお陰。
様々な瞬間を創り上げるため、それぞれの「役割」を粛々と営む人たちと共に生きているんだ。そう感じるようになりました。
私は、その言葉を発する自分自身を大切にすることで、人の心に灯をともすような言葉を発せられる人でありたいです。
自分の弱さも強さも、表も裏も受け容れて、「私はどう在りたいのかな?」と問いかけ、励まし勇気付けられるような言葉を自分自身にこそ投げかけて生きる。
私として生きることは、森茂聡子という名前や存在を残すためではなく、人の営みの一部となることに生きがいや喜びを感じることだと思います。
飛騨古川への想い。温もりのある飛騨弁で話す、飛騨のばあちゃんになりたい
もうひとつ、私には、飛騨地方の方言、「飛騨弁」を大切にしたいという想いがあります。
飛騨弁で話していると、「おっとりしていて可愛らしい言葉ですね」と褒めていただけることがありますが、使い手が生き生きと人生を楽しんでいると、飛騨弁という言葉にも心地よいバイブレーションが乗って、本当に美しく、可愛らしく、心に響く言葉になるのではないかと思っています。
言葉には、その人の生き方が現れます。
10年後も、20年後も、生き生きとした飛騨弁が使われて、私自身の使う言葉にもさらなる温かみが乗っていたら最高です。
私の住んでいる飛騨古川は、今すごく元気で勢いがあります。
飛騨市長の聞き手を務めながら様々なテーマで市政の話をする「市長と共にふれあいトーク」をはじめ、「飛騨市民音楽祭」、「飛騨市農業まつり」「宮川こいこい花火」、「快存上人ご法要」、「夏の色和衣」など、大好きな飛騨市のイベントに司会者として関わらせていただき、少しでもお役に立てたら嬉しいです。
実は私は、私が飛騨古川で生き生きと過ごしているだけで観光客が来てくれるんじゃないかと本気で思ってるんですよ(笑)。
きっと、嬉しくて幸せなバイブレーションが、誰かと町で交わす言葉にも、司会をしている時の言葉にも乗って響いて拡がっていくと思うんです。
なんてったって、私が目指しとるのは「飛騨のばあちゃん」。
温もりのある飛騨弁を話し、そこに居るだけで、なんとなく場が和んでしまう「飛騨のばあちゃん」になりたいというのが、私の夢なんやさな。
方言学では「飛騨方言」と言われる「飛騨弁」。
「◯◯なんやさ〜」「◯◯やもんで…」というおっとりとした語尾が特徴的な飛騨地方の方言ですが、森茂さんの話す飛騨弁は、何とも言えない温かみのある音を持ち、空間に優しく響きます。
言葉の財産として、飛騨弁の「形」も、そこに宿る「温もり」も、この先ずっとずっと残っていったらいいなと感じました。
記事をお読みいただいている皆さんにもぜひ実際に、森茂さんの言葉を聴いていただきたいです。きっと、心がすごくのくとまる(飛騨弁で温まるの意味)と思います。
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