歴史文化と多文化共生。住んでいる外国人も幸せな飛騨高山へ ー 糸田恵子 ( 歴史研究 / 日本語教師 )

高山市赤保木町の「風土記の丘学習センター」学芸員として飛騨高山の歴史研究を進める傍ら、飛騨地方在住の外国人を対象とした日本語教師を務める糸田恵子さん。

「多文化共生」とは、 国籍や民族などの異なる人々が文化的な違いを認め合い、対等な関係を築こうとしながら共に生きていくこと。

「歴史と文化の街」と呼ばれ、「国際観光都市宣言」を掲げて、早くからインバウンド(訪日外国人観光客)対応を進めてきた高山市。

そんな飛騨高山の魅力と強みに近い場所で、糸田さんがその目で見続けてきた実情とは?飛騨高山の未来に繋がる、糸田さんのストーリーをご覧ください。

考古学が大好き。地元の高山から、大学生活を過ごした京都に舞い戻る

生まれたのは埼玉県です。小学校に上がる時に、両親の地元である高山市にUターンしました。小学校高学年の頃から、子ども向けの考古学のシリーズ本に夢中になりまして、土器拾いが趣味になります。

丹生川の父の実家の近くで土器が出る畑に行っては土を眺めていました。中学生の頃には、江名子町糠塚(ぬかづか)の発掘現場の調査のお手伝いに行きましたね。

発掘現場での一枚 ー 糸田恵子さん提供

動物も大好きだった私の将来の夢は、「考古学者」か「獣医」のどちらか。斐太高校に進学しましたが、理系科目はからっきしダメでした(笑)。獣医の夢は早々に消えましたね。

歴史が大好きなので絶対に京都に行きたくて、京都府立大学文学部国文学中国文学専攻に進学しました。専攻したのは、江戸時代の日本人儒学者が書いた漢文をテーマにする和漢比較文学です。

そして、大学でとても魅力的なものに出会います。ちょうど私が大学に入学した年から、中国語が第二外国語の科目になりました。今でこそ中国語はメジャーな言語ですが、当時は珍しかったのです。私は中国語や漢文にどっぷりとハマり、憧れの京都での大学生活を過ごしました。

「大学卒業後は高山に帰ってこい」と両親に言われていまして、帰郷してからは父親が経営する会社に勤め始めます。でも、ほんの3か月(笑)。

両親が旅行で留守にしている間に、勝手に仕事を見つけてきます。それが高山市文化財課が行っていた高山市上野町の「垣内遺跡」の発掘調査でした。当時は都市開発や道路整備がたくさん行われる時代で、それに伴って工事予定地の大規模な発掘調査も行われていましたね。

糸田さんが担当された図式 ー 糸田恵子さん提供

垣内遺跡は、飛騨で最大級の縄文大集落が発掘された遺跡です。現場発掘が終わり、遺物の整理と報告書に載せる図面を書く所まで関わりました。

高山で発掘作業に携わりながらも、やっぱり京都に未練がありましたね。そして、またもや両親に内緒で就活をしまして、京都の府立高校で国語教師の仕事を見つけてきます。

両親、特に父の怒りは相当なものでしたが……(笑)。京都に舞い戻り、新たな生活を始めます

国語の教師から図書館司書と職を転々とし、日本語教師の道へ

大学時代に教員免許と学芸員、図書館司書の資格を取っておいたのが役に立ちましたね。京都の府立高校で教師を務めた後、京都の私立大学の図書館で司書として働きました。その縁で、準備室段階だった「滋賀県立琵琶湖博物館」の図書室の司書のお話をいただきます。

滋賀県立琵琶湖博物館 ー 糸田恵子さん提供
滋賀県立琵琶湖博物館 ー 糸田恵子さん提供

博物館オープン前の立ち上げ期から、図書室の責任者として5年以上勤めました。博物館内の図書室をゼロの状態から立ち上げるという滅多にない経験です。図書閲覧室と20万冊収蔵の書庫のレイアウトから、データベース構築、図書の収集まで……なんでもやりました。今でもこの経験は役に立っています。

滋賀県立琵琶湖博物館 ー 糸田恵子さん提供
滋賀県立琵琶湖博物館 ー 糸田恵子さん提供

同時に、中国と日本の化石の繋がりを研究している研究者の研究補助をしました。学んできた中国語を使うことができ、中国の調査旅行にも同行したり、化石の発掘調査に加わったりもできる。これも、本当に楽しい仕事でした。

博物館勤務時代、九州の大分県安心院でゾウの化石を発掘 ー 糸田恵子さん提供
博物館勤務時代、大分県安心院町でゾウの化石を発掘 ー 糸田恵子さん提供

楽しくて楽しくて夢中で過ごした数年間。しかし、気づくと私はaround 30。この先が不安になってきます。結婚もしていない。このまま一人で生きていくのだろうか。一人で生きていくとして、何が自分らしいんだろうか……。

仕事が楽しい一方で、先が見えなくなっていきました。しだいに体調も崩し、図書室での仕事もままならなくなりながらも、それでも頑張らなければいけないと思っていました。

博物館勤務時代、九州の大分県安心院でゾウの化石を発掘 ー 糸田恵子さん提供
博物館勤務時代、大分県安心院町でゾウの化石を発掘 ー 糸田恵子さん提供

救いとなったのは、10歳年上の図書室同僚の女性の言葉です。「自分がやらなきゃいけないと思っているでしょ。だけど、あなたがやらなくても誰かがやるよ。もうここを辞めなさい」そうはっきりと言われ、背中を押していただきました。今でも感謝しています。

博物館勤務時代、九州の大分県安心院でゾウの化石を発掘 ー 糸田恵子さん提供
博物館勤務時代、大分県安心院町でゾウの化石を発掘 ー 糸田恵子さん提供

博物館を辞めるといっても、先のあてはありません。どうしようと考えた時、国語教師の経験と得意な中国語から、中国に行って日本語を教えるという選択もありかなと思い立ちます。博物館を辞めた後、日本語学校付属の教員養成学校に半年間通いました。

「日本語教育能力検定試験」に合格して学校を卒業したのですが、その間に高山出身のパートナーと結婚することになり、迷った末に高山へと戻ることになります。

そして今の私の基が出来上がったわけです。20代で職を転々としながら、選んだ道に後悔はありませんが、その時々の選択肢やタイミングがちょっとズレていたら、全く違う人生だっただろうなと思いますね。

インバウンドの街 飛騨高山の、数少ない在住外国人の実情

ラッキーだったのは、私が高山に戻ってきたタイミングで、高山市役所も日本語教室を始めようと講師を募集していたのです。週1日3クラスからのスタートでしたが、飛騨地方在住の外国人を対象とした日本語教室の講師となります。

平成31年春、日本語教室最終回の記念写真 ー 糸田恵子さん提供
平成31年春、日本語教室最終回の記念写真 ー 糸田恵子さん提供

受講生の日本語のレベルはバラバラです。日本語である程度の意思疎通が図れる方と、全く何も分からない方とでは指導方法も別次元になります。それをクラス形式で講座開催するのには苦労もやりがいもありました。

一時、国際結婚で高山にお嫁に来た中国出身の方の受講生が多くいらっしゃる時期がありました。夫婦生活、家族関係、子育て、仕事、みなさんそれぞれに悩みを抱えながら暮らしてみえます。日本語教室は、ただ日本語を教える講師と生徒という関係では収まりません。これまでに様々な相談を受けてきました。大喧嘩の場に呼び出されて通訳したこともあります。

それに加え、小学校・中学校で外国籍の子どもたちの支援の仕事も始め、おかげで日常的に中国語を聞いて話す機会には事欠かず、地元にいながら留学状態です。中国語を忘れないでいられましたね(笑)。そうやって関わってきたお嫁さんたちとは、今は友達関係になり、変わらず仲良くしています。

この春に法改正があり、日本はより多くの外国人を「住む人」として受け入れる方向へ向かっています。その流れは高山にも波及しており、この20年間ゼロだったベトナム人の日本語教室受講者が、今年から一気に増えました。

毎年欠かさない「ひな祭り」の会 ー 糸田恵子さん提供

高山で生活することを目指してやってくる外国人。この人たちはただの労働力でしょうか?共に地域に暮らす仲間でしょうか?

「多文化共生社会」という言葉があります。「定住生活している外国人を共に地域に暮らす仲間として、お互いに協力して幸せな社会を作る」という考え方です。

しかしそもそも、「日本語は難しいからね。でも、働くならまずは日本語話せるようになってね」というのが入り口の、過分に同質化を重視する日本で、多文化共生はどうやったらできるのだろうか?と常に立ち止まり考えます。

子どもたちの宿題会、冬休みの会 ー 糸田恵子さん提供

インバウンドの盛んな高山市においては、災害時の対応や病院での医療通訳など、想定のメインは外国人観光客です。制度が整備されることはありがたいですが、一高山市民として住んでいる外国人はどこまで意識されているのでしょうか。

縁があって日本に、それもこの高山へ来た外国人の方が「住みにくくて嫌な街だ」と思って暮らしていたら、ただただ残念ですよね。

「高山は大好きだけど、会社は私を必要としていないみたい」私にそう告げて、東京へ転居した中国の方もいらっしゃいました。高山にとっては損失です。

日本語教室講師を務めている立場からすれば、「住んでいる外国人が幸せでなくて、『国際都市』と言えるのですか?」というのが正直な気持ちです。もっと語学力や文化の違いを活かした、活躍ができる地域になってほしいですね。

まだ研究の余地がある、飛騨高山の重層的な歴史

高山に戻って、日本語教室の講師を始めると言っても週1回3クラス。それじゃ、生活できません。

同時に高山市郷土館で嘱託学芸員として勤め始めました。現在は、赤保木町の「風土記の丘学習センター」で勤務しております。

 

赤保木町の「風土記の丘 学習センター」 ー 糸田恵子さん提供
赤保木町の「風土記の丘 学習センター」 ー 糸田恵子さん提供

赤保木周辺は縄文時代から絶えず人が住み続けている、一等地と呼べる場所なんですよ。天気が良ければ山々を一望できますので、ぜひ遊びに来てください!

「風土記の丘 学習センター」からの景色 ー 糸田恵子さん提供
「風土記の丘 学習センター」からの景色 ー 糸田恵子さん提供

戻ってきてから20年間、飛騨高山の歴史研究に関わり、古文書の整理や解読を進めてきました。飛騨高山は「歴史と文化の街」だと言われ、高山祭りや古い町並みが大きく注目されがちですが、それだけでは飛騨高山は語れません。どの地域もそうですが、重層的な歴史の積み重ねで今の街の姿や文化があるのです。

高山の歴史資料は多くが手付かずで眠っています。例えば、高山で生まれた江戸時代後期の国学者である「田中大秀」は有名ですが、逆に言えばこの人くらいしか注目されていません。町人学者と言われた人物は他にもたくさんいます。

私が今追いかけているのは、延享4年(1747)に高山で生まれた、漢学者の「赤田臥牛(あかだがぎゅう)」です。

赤田臥牛は高山に「静修館」という学問所を開いて、飛騨の学問の礎を築いた方なのです。そんな赤田臥牛の残した漢文を読み解いているのですが、こうした大きな功績を残しながらも研究されていない人物や出来事がたくさんあるのです。

時代の高速化と共に、飛騨が本来持つ美しい歴史は消えつつあります。もっと古い時代も含めて興味を持つ方が増えて、少しずつ歴史が解き明かされていけば、より「歴史と文化の街 飛騨高山」としてのブランドの厚みが増すのは間違いありません。

歴史文化と多文化共生。住んでいる外国人も幸せな飛騨高山へ

私の生活は20年前からずっと、「日本語教師」と「歴史研究」の二本立てです。

どっちも真面目に取り組んできて、20年経ってみたら、「何が本業ですか?」とよく聞かれるようになっていました。私の感覚としてはどっちも本業です。

毎年欠かさない「ひな祭り」の会 ー 糸田恵子さん提供
毎年欠かさない「ひな祭り」の会 ー 糸田恵子さん提供

高山は世界から人が訪れ、人を惹きつける魅力がある街です。高山の魅力は、「変わらないものや変わらず残っているもの」なのでしょう。

仕事柄、高山のかつての姿を語れる方にお話を聞く機会がありますが、もうその「良き高山」は風前の灯と言えると思います。自分の街の歴史をより一層、大切にしていきたいですね。

そして、訪れる異文化を尊重し合えること。本物の「国際・文化都市」になるために、うわべだけでない、街としての魅力を発信できる飛騨高山へ変わっていくことを願い、私もその一端を担い続けたいです。

年間50万人以上の外国人観光客が訪れる飛騨高山。しかし、在住外国人の数は762人(令和元年6月末統計)と、高山市の人口(約8万8千人)に占める割合は約0.9%であり、ごく少数に留まっています。(岐阜県全体の在住外国人割合の平均は約2.8%)

 

今後も外国人観光客や、日本に移住する外国人労働者が増え続ける中で、「国際観光都市 飛騨高山」はどのような在り方を模索していくのでしょうか。そして、多様な人々が混じり合う中で、「飛騨人」としての市民意識をどう培って、共有していくのでしょうか。

 

「歴史文化」と「多文化共生」。糸田さんが長年かけて取り組まれてきたテーマこそが、未来の飛騨高山のヒントに直結しています。

連絡先 / 参考リンク

糸田恵子
https://www.facebook.com/knamatsu

県内外国人住民数 / 市町村別 ー 調査:岐阜県 清流の国づくり政策課
https://www.pref.gifu.lg.jp/sangyo/kokusai/tabunka-kyosei/11122/gaito.data/H29.6.pdf

 

この記事を書いた人

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丸山純平

丸山純平(まるやま じゅんぺい)
高山市出身。株式会社ゴーアヘッドワークス 企画/ライター
ヒダストのほぼ全ての記事を書いています。
最近は飛騨ジモト大学の事務局も担当。
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