300年後に残せる「観光都市 飛騨・高山」を目指して!飛騨の旦那衆の志の復権を! ー 長瀬公昭 ( 有限会社 長瀬久兵衛商肆 代表取締役 / 飛騨の歴史再発見!案内人 )

「馬印 三嶋豆」で有名な、創業明治初年の豆菓子専門店「有限会社 長瀬久兵衛商肆」を経営する長瀬公昭さん。事業の傍らで、「飛騨高山まちなみコンサート」の主催や Hits FMの番組「飛騨の歴史再発見!」の案内人を務めるなど、多様な市民活動を展開されてみえます。

そんな長瀬さんが思い描く、300年後に残せる「観光都市 飛騨・高山」を目指すとは?

三嶋豆をほうばりながら、ぜひご一読ください。

「豆屋」の息子は「京セラ」へ

高山市上一之町で生まれました。実家は「馬印 三嶋豆」を製造する、創業明治初年の豆菓子専門店「有限会社 長瀬久兵衛商肆(ながせきゅうべいしょうし)」です。

上一之町は飛騨高山の観光地である「古い町並み」に位置し、お店は高山祭の屋台組「神楽台」の組員でもあります。僕らにとって屋台は「城」なんですよ。だから祭の日は、屋台に乗って「敵」と戦うような感覚でした。調子に乗って「かんしゃく玉」や「銀鉄砲」を打ち合ってたら、近所のおじさんにどえらい怒られたな(笑)。

小学6年生の時に親父が亡くなりましてね。二人兄弟の長男やったもんで、自分が豆屋を継がなきゃならん意識が芽生えていました。だけど、都会への憧れもあったな。斐太高校に進学した後、先生の勧めで京都産業大学経営学部に入学しました。

京都での大学生活は楽しかったな。当時は学生運動の最後の時代でな、バリケードを作って戦う血気盛んな連中もおった。僕はいろんなバイトをしながら、学生自治会(文化会)の会長を務め、会の立て直しをしたことで学長表彰をもらいました

そうしたら実家に帰省した時に、「お前は大学で遊んどったんやで、すぐに戻ってきて豆屋継げ」と叔父から頭ごなしに言われましてね。そりゃカチンと来ましたよ。絶対に叔父が入れんような大企業に就職して見返してやろうと就活に励み、ご縁あって「京セラ株式会社」に就職しました。

新入社員研修では、京セラ創始者の稲盛和夫さんの思想である「京セラ フィロソフィ(哲学)」を叩き込まれたな。不可能を可能にするとはどういうことなのか?ここで学んだ思想はずっと僕の中で息づいとるね。

海外派遣で経験した「10%の魔術」

京セラで働き始めて2年目、海外派遣で代理店勤務としてシンガポールへ飛ばされたんや。当時の京セラは、カメラや電化製品の会社を吸収して大きくなったばかりで、海外にも製品を輸出していました。僕は英語なんか全く喋れないし、海外へ行くこと自体も初めてやった。1人で派遣されたので、ごはんを食べるために必死で現地英語を勉強したな(笑)。

仕事は主に会社の経営状況のチェックで、正直やることなかったんです。せっかく派遣されたんやから、売り上げを伸ばしてやろうと思ってね。現地の営業マン3人に「毎月の売り上げを10%ずつ伸ばせんか?」と頼んだんです。半年間達成できたら鉄板焼きを御馳走する約束です。この時、目標金額で伝えるとみんな拒否するので、「得意なカメラを今月は10台売ってるなら、来月は11台売れるか?」と聞いたんです。みんな「それならできる!」と言ったよ。 

これが実は「10%の魔術」でしてね。1.1の6乗は約1.8ですから、毎月10%の売り上げ増加を6ヶ月間継続すると、気づいたら2倍近くになる。半年後には無事に売り上げ2倍を達成して、セールスだけでなくて社員全員でお祝いパーティーをしたな。あの想い出は一生忘れられんね。

これはもっと売り上げを伸ばせると、帰国後はいろんな販促企画や顧客対策を考えた。赴任した当初、月の取引高が約240万円やったけど、1年半後には2億4千万と100倍以上になりました。

そうして今度はドイツへの海外派遣が決まったのですが、爺ちゃんに「限界やで戻ってきてくれ!」と頭を下げられましてね。育ててもらった爺ちゃんに請われちゃ断れんと、京セラを辞めて26歳で高山に帰ってきます。長男の宿命だと思い、その時は山の中へ行って1人で泣きましたね。

日本で最も歴史ある「馬印 三嶋豆」

「馬印 三嶋豆」は、大豆にお砂糖をまぶした、昔ながらのシンプルな豆菓子です。創業から代々受け継いできた製法を守り、丁寧に手間暇かけて仕上げています。

一時は機械での製造も試したんやけど、やっぱり手作りじゃないと風味が出んのやさな。

僕が家業を継いだ当初は、伝統の「馬印 三嶋豆」以外の商品が乏しく、事業拡大には商品ラインナップの充実が必要不可欠でした。どんな新商品なら自信を持って提供できるだろうか。模索していたら、実家の仏壇の中から秘伝のレシピを記したメモを見つけた(笑)。「山椒豆」と「黒糖豆」、「紫蘇豆」はそのレシピをもとに復刻いたしました。

従業員が開発した「海苔豆」や、現代人向けのシナモンやココア味も人気です。気づけば18アイテムまでバリエーションが増えました。

 

シンプルな製法に加えて、地名が付くと商標が取れないため、全国各地には約10件ほど「三嶋豆」と名乗る類似商品があります。しかし、その中でも「馬印 三嶋豆」は、「日本で最も歴史が古い豆菓子」だと小学館の調査で分かりました

飛騨高山だけではなく、都市圏の販路を開拓しています。小牧空港やギフトショップ、JR岐阜駅構内のアンテナショップ等にも卸させていただいています。

また最近では、ホームページでの新たな顧客開発にも力を入れています。例えば、三嶋豆の新しい食べ方の提案です。意外とウイスキーやビールにも三嶋豆は合うんですよ。

こうした三嶋豆の次の可能性を広げているのは、僕の娘や息子。それが本当に嬉しいんやさな。

飛騨地方の歴史研究の道へ

僕が高山に戻ってきた頃は、パソコンを使える若者がおらなかった時代やでな。いろんな会に入れさせられたな。青年会議所やら観光協会やら、毎日何かの会合で忙しかったさ。

その分、仕事でもいろんなチャレンジをしたな。高山で焼酎を販売したり、飛騨古川でお土産屋を経営したり、白川郷で会社を始めたこともあった。どれも上手くいったと思ったらトラブルに巻き込まれ、いろんな人生経験を積んだな。

 

大きな転機は、たまたま自分の屋台組の成り立ちを調べて文章にまとめたことやな。その中で、「谷口与鹿 (屋台彫刻の名手)」に関する文章を読んだ当時の観光協会の会長から「来月から観光協会の会報で連載しろ!」と言われたのです。そうして始めた連載を読んだHits FMの方から「ラジオで話してくれんか?」と頼まれたのが今日まで続いています(笑)。

ラジオとなったら、屋台やだけではなくて、飛騨地方の歴史全般を話さなきゃならん。郷土史を調べたり、現地に赴いて取材したり、自分の足と頭を使って調べたことをラジオでは話しています。

 

例えば、古い町並みの両脇には小さな水路が流れてますよね。この水路は、除雪や火災時にも使用できる生活用水なのですが、実は傾斜を利用した大きな雨樋でもあるのです。昔の道路は土の舗装で、雨が降った時の水たまりが乾くと砂埃が立つんですよ。だから水たまりができないように、屋根から直接水路へ雨水が落ちるように設計されています。

 

こんなことを十数年続けて分かったことは二つ。

一つ目は、飛騨高山の土地の素晴らしさ。高山祭や古い町並みだけが魅力ではない。観光資源になりうるスポットや逸話、輩出した偉人が多過ぎる重層的な歴史がこの街にはあるんやさな。こんな土地は日本全国探してもなかなかないよ。

二つ目は、飛騨高山は「文化の街」や「歴史の街」だと言いながらも、実際に街の文化や歴史を研究したり、伝えている人があまりにも少ないこと。これではいかんと思いましたね。

飛騨高山が観光地として生き残っていくためには、もっと「歴史的・文化的背景」を勉強し、活かしていかならんです。僕が目指すのは「旦那衆」の志の復権です。

300年後に残せる「観光都市 飛騨・高山」を目指して

極端な話、今の観光地 飛騨高山が食べていけてるのは、飛騨の旦那衆がいたおかげです。

全国の祭り屋台は天明・天保の飢饉(1783年・1833年)の後に作られているのがほとんどです。つまりは一般庶民を貧困から救済する公共事業に近かった。しかし、高山の祭屋台ができたのは1700年代の前半。その費用は、旦那衆と町人たちの志です。

旦那衆の思想や行動原理は「飛騨高山の街を支える」、その一点でした。自身の商売を繁盛させ、地域のお祭や政治に深く関わり、多額の私費を投じてきた。金持ちの道楽じゃないんですよ。経済的にも政治的にも、飛騨高山の発展に大きく寄与している。

間違いないのはそうした旦那衆や町人の志があって、飛騨高山の文化は創られた。そしてその文化が魅力となり、観光地となって、300年後の令和の時代の僕らが生かされている。本当に尊いことや。果たして僕らは、300年後に残せる文化を創ることができるやろうか。

僕が生まれ育った上一之町は現在、高齢化率が45%を超えています。このままでは屋台の維持どころか、高山祭そのものができない。ただ悲観するのではなく、行動せなあかん。

いろいろと言われることもあるし、人間関係で上手くいかんこともいっぱいある。それでも、やっぱり僕は育ててもらったこの街が大好きなんやさな。

今から少しずつ取り組むことでも、10年後には大きな差ができる。「10%の魔術」やからな。自分のできることで飛騨高山に貢献したい。それがこの街で生きるってことなんやさな。

飛騨高山に戻ってきてから約30年、さまざまな活動を地道に続けてきた長瀬さん。

「本当は『飛騨高山まちなみコンサート』や他のイベントの話もしたかった!」と口惜しそうに語られました。記事に収まりきらないエピソードの数々は、長瀬さんの飛騨高山への熱量そのものです。

さて、300年後の飛騨高山はどんな街なのでしょうか?この街の未来に思いを馳せながら、昔ながらの三嶋豆を味わってみてください。

連絡先

長瀬公昭 (ながせ きみあき)
https://www.facebook.com/nagase.kimiaki

馬印三嶋豆本舗
住所:岐阜県高山市上一之町103番地
TEL:0577-32-1810
営業時間:9:00~17:00 (不定休)

飛騨の歴史再発見!
https://www.facebook.com/rekishi.hida/

この記事を書いた人

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丸山純平

丸山純平(まるやま じゅんぺい)
高山市出身。株式会社ゴーアヘッドワークス 企画/ライター
ヒダストのほぼ全ての記事を書いています。
最近は飛騨ジモト大学の事務局も担当。
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