がんサバイバーとして、誰かのために生き続ける ー 三井祐子 ( がんサークル Owls 代表 )

「がんサークルOwls」の代表として、高山でがん患者・当事者の居場所をつくる三井祐子さん。その半生は様々な困難が続く、生きる意志を試され続ける日々でした。そんな三井さんが誰かのために活動し始めた大きなきっかけとは?
凛としなやかに生き続ける、一人のがんサバイバー(生存者)の半生をご覧ください。

極貧だった子ども時代

高山市緑ヶ丘町で生まれました。祖父母と両親、二つ下の弟の6人家族。

 

小学校1年生の時に、父親が事業に失敗して多額の借金を抱えたんです。我が家の生活は一変、家も引き払って無一文になりました。家族総出で昼も夜も働く生活。私は学校から帰ったら、家事や弟の面倒を見なくちゃという責任感でいっぱい。なにか買って欲しいとか、遊びに連れて行って欲しいとか、言いたいのを我慢して育ちました。

 

飛騨高山高校の普通科に進学する頃には、ようやく借金を完済する目処が立ってきたのですかね。それでも高校を卒業するときに、大学進学するなんて選択肢を選べなかったです。もともと勉強熱心ではなかったので、どうしてもこれを学びたいという気持ちもなく、目的も夢もないのに進学するのはいろんな意味で気が引けました。

 

そうして高校卒業後は「JAひだ」に就職させていただき、3年くらい勤めました。職場の先輩方にも恵まれて楽しく働いていたのですが、3年目の異動先があまり私には合わず転職。その後は建材メーカーの高山支店に勤めました。5年ほど務めた頃に今の夫と結婚し、出産を機に仕事を辞めます。ここから現在進行形で、様々な困難と直面していくとは夢にも思いませんでした。

夫が病に倒れた新婚生活

子どもが生まれてからすぐ、夫が病に倒れてしまい長い闘病生活に入ります。子どもも幼く手のかかる時期です。思うように働けなくなってしまった夫の看病もしてあげたいけれど、子育てと家族が生きるのに精一杯の日々。当然経済的に大変なので、上の子を2歳から保育園に預けて働き始めました。結婚当初に医療事務の勉強をしていたおかげで、現在も病院や診療所でお仕事をさせてもらっています。

 

夫の容体が安定してきて平穏な日常生活を取り戻した頃、二人目の子どもが生まれたんです。またそのタイミングで夫の病が再発してしまい、再び入退院の日々が始まります。上の子もまだ目が離せない時期だから、ギリギリの生活でした。家族のために働けず、必死に闘病している夫も辛かったと思います。当事者の辛さを全ては理解できない。だからこそぶつかり合ってしまうのが、情がある家族の難しいところですよね。そんな新婚生活でした。

 

夫が病状の関係で富山の総合病院に入院していたんです。夫の通院に付き添っていたある時、ふと自分の胸にシコリがあることに気づきました。その富山の病院に乳腺外科があり、すぐに受診したのが32歳の時。検査の結果は良性のシコリで一安心でしたが、「嚢胞(のうほう)」と呼ばれる水みたいな無数の影がレントゲンに映っていたんです。経過観察として年に一回は検査を受けることになり、真面目に毎年受診していました。

 

 

39歳、「乳がん」になりました。

毎年検査を受けるようになって7年目、「三井さん、今年は大丈夫って言えない。精密な検査を受けてください。」と、唐突に主治医から告げられました。いくつかのさらなる検査を受けて、右胸に乳がんがあることが発覚します。当時はショックすぎて号泣し、病状説明も全然聞けませんでした。高山までの2時間の帰り道、どうやって運転してきたのかも覚えていません。

 

「三井さんの選択肢は右胸の全摘出しかありません。」初期だけど乳房の全体に広がるガンだから、選択肢がなかったみたいです。胸を失くす喪失感は、私はあまりなかったから素直に受け入れました。ありがたいことに手術の2ヶ月前に、乳房の再建術が保険適用になったんです。全摘出を経たものの乳房を再建したので、一見乳がん患者には見えないと思います。

 

手術当時上の子は小学校6年生、下の子は1年生。大人でもショックなのに、ましてや子どもは「がん=死」としかイメージできないですよね。悪い想像が膨らむ中で手術後、いろんな管に繋がれた痛々しい母の姿は相当堪えたでしょう。初期で発見できたので、抗がん剤の必要もなく手術だけで終わりましたが、そのショックは引きずっていました。30代でがんになった人なんて高山にいるのだろうか。自分だけじゃないかな。患者会を探して、当事者と話したい。日が経つにつれてそんな思いが強くなります。

 

まずは富山の乳がん患者の会に行ってみたんです。越中のおばちゃんたちに可愛がってもらえたけど、当時39歳の私が一番若い。高山でも市民時報で見つけた、蒲池和子さんが主催する「ひだまりの会」に参加してみました。地元の当事者と出会える場はありがたかったけれど、やっぱり若い人はいなかった。その時は自分でそうした場を創る発想はありませんでしたが、自分が乳がんサバイバーであることを周りに隠してはいなかったんです。私と話がしたいという方には積極的に出会い、できる限りの情報提供をしていました。

 

がんの再発と親友との別れ

日常生活を送りながら、定期検診を受ける日々がそれから4年ほど続きました。しかし去年の11月、今度は左胸に怪しい影があると言われて精密検査となります。なにが辛いかって結果が出るまでに一週間かかるんですよ。針のむしろの一週間を耐えた結果は、またも乳がん。左胸も全摘出とのことでした。

 

今度は泣き崩れることはなかったです。この数年で知識が付いていたので、病理の結果を見て「有効な治療法のあるがんだ!」と分かったからです。その時はすごく元気で闘争心に満ちていたのですが、すぐに落ち込んできます。手術前にもたくさんの検査があって、結果が怖いし時間がかかる。そうすると悪い方向へ想像が止まらなくなって「今度こそ死ぬんじゃないかな。他にも転移している?また再発する?」最後は寝られなくなりました。

 

 

手術の直前に、同じ乳がんと闘っていた歳も近い親友と死別しました。その昔親友から「今すぐお家に行っていい?」と突然電話がかかってきたこと、今でも鮮明に覚えています。家に来た親友が「三井さん、胸を触って欲しい。」と言って、恐る恐る触った感触が忘れられません。すごく大きなしこりがありました。

それから親友は半年間の抗がん剤治療と手術を経験し、その後も定期的に抗がん剤治療を続けながらも、気丈に振る舞い元気に働いていました。

 

私の2回目の再発の際、親友に連絡したら「私もあまり調子が良くなくて。」と言われたんです。親友の初めて吐いた弱音に、いつもの明るい姿とギャップを感じながらも「私の手術が落ち着いたら会いに行くね。」と伝えました。そう連絡した矢先、親友は亡くなってしまったんです。とにかく涙が止まりませんでした。亡くなる3日前まで連絡を取っていたのに、勝手に大丈夫、また会えると思っていたことが情けない。同じ当事者としてもっと寄り添えなかったのかな。ただただ悔しくて、親友のお葬式で「自分の手術を乗り切って、当事者が集まれる場を私がつくるね」と祭壇に向かって誓いました。

 

がんサークル Owlsとして動き出す

無事に手術を終え、退院してすぐに「女性限定がんサークルOwls」を立ち上げました。一人で立ち上げたのですが、共に運営する相棒の荒井里奈さんとも運命的に巡り会えました。名前も顔も公表しているがんサバイバーで、新聞にコラムを連載していたんです。その記事を見て興味を抱いたら、なんと高山市在住と書いてあったためすぐに連絡しました。相棒も「高山にサバイバー仲間が欲しかったの!」と意気投合。相棒の存在なくしては活動できないくらい、私の心の大きな支えです。

 

 

サークル名の「Owls(オウルズ)」は文字通り「フクロウ」から名付けています。初めてがんを発症した年、ある検査に時間がかかって帰りが遅くなったんです。富山から高山までの帰り道、その日はなぜかいつもと違う41号線のルートを選んだんですね。峠に差し掛かり登る途中、車のヘッドライトの先に白いなにかが舞い降りて来たんです。寸前で止まってよく見たら、美しい野生のフクロウで大興奮。それ以来フクロウが好きで、自分の守り神なんです。

フクロウは世界中で幸運の鳥と言われていて、日本でも「不苦労」と当て字ができるため縁起が良いとされています。参加者が元気で幸せにいられるようにと願いを込めて、フクロウの複数形で「Owls」と名付けました。

 

2018年3月に、初めてOwlsとして座談会を開催します。最初は女性限定で、主に若年性乳がん・子宮頚がんサバイバーを対象にしていました。座談会を開催してみたら男性やご高齢の方からも問い合わせをたくさんいただいたんです。女性限定の安心できる場づくりだけじゃなくて、誰しもが参加できる会も主催しようと現在は隔月で交互に開催しています。

 

 

座談会では自己紹介から始めて、不安に思っていることや近況を順番に話していきます。辛かった当時を思い出したり、仲間を亡くしている方もいらっしゃるので、お話しされながら泣かれる方も多いですね。でも座談会の最後は、みなさん明るく笑顔で帰っていかれます。自分の本音を話せる場や共有できる仲間がいると、心強いだけじゃない。病気に対する受け入れ方も変わってきますよね。

 

今後はOwlsとして座談会を続けながら、小児がんの支援活動も行いたいです。高山でも一年に一人くらい、小児がんに罹患する子どもたちがいます。しかし高山では治療できないケースが多く、子どもとお母さんが岐阜や名古屋に滞在して一年以上の闘病生活を送ります。そうした現状を多くの方に知ってほしいとOwlsに相談されました。当たり前に学校に行って、元気に遊べる子どもたちだけじゃない。まずは知っていただいて、善意をお寄せいただけたら嬉しいです。

私は「がんサバイバー」として、強く生き続ける

「がんになったら死んでしまう」というイメージ・先入観があるけれど、「いやいや違いますよ!」と言いたいです。「がん=死」じゃない証として、まずはがんサバイバーの私たちが元気に活動し、日々を充実して生きること。それを発信することでできたら子どものうちから、「生きること・死ぬこと」に向き合う時間をつくってほしいです。だから私も様々な会に自分の子どもを連れて参加しています。

 

 

積極的に情報発信をしていく中で、批判されることもよくあります。がんサバイバーだって友人と美味しいごはんを食べたり、お洒落をして外出したい。自分の病気をどう受け入れているか、捉え方が違う人たちがいるから社会なのかもしれないけれど、全部を否定されたくはないです。じゃあがんは可哀想な病気なのかな?決してそうじゃないと思うからこそ、私たちは立ち上がりました。

 

これを読んでいるあなたもがんになるかもしれない。私たちだってがんで死ぬとは限らない。病気に限らず、様々な困難を一人で乗り越えるなんて難しいですよ。自分だけで抱え込まずに、いろんな人の助けをもらえるネットワークをつくることが大事ですよね。「Owls」がその一助になれたら嬉しいです。

 

「生きていくこと、命とはなにか?」私が好きなある方の言葉では、「自分のために生きる時間じゃなくて、誰かのために使う時間の長さが命なんだよ」と語られています。私もこれからの人生は、誰かのために生きていこうと決意しました。それは親友との約束でもあります。

 

「私、がんサバイバーよ!」と胸を張って言いたいんです。「がん患者」と呼ばれるよりは、今後も困難を乗り越えていけそうな気がする。誰かのために生き続けたい意志が、私にはあります。

 

 

強さを秘めた眼差しで、真っ直ぐに生きる意志を語る三井さん。その姿は人間の素晴らしく、美しい生命力に満ち溢れていました。平均寿命が100年を超えると言われる今後の日本社会、ますます多くのがんサバイバーが生まれます。Owlsの活動は飛騨に貴重な居場所を創り続け、生き続ける意志と尊厳を分かち合うことでしょう。

連絡先

三井祐子(みついゆうこ)

https://www.facebook.com/profile.php?id=100007859107762

携帯:090-7697-3783 (三井)

Mail:yu.mu.pu.1014@gmail.com

※Owlsの活動にご興味を持っていただいた方、上記よりお気軽にご連絡ください。

 

この記事を書いた人

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丸山純平

丸山純平(まるやま じゅんぺい)
高山市出身。株式会社ゴーアヘッドワークス 企画/ライター
ヒダストのほぼ全ての記事を書いています。
最近は飛騨ジモト大学の事務局も担当。
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