挫折し続けた半生、30歳で初めて決めた覚悟 ー 盤所杏子 ( 個人事業主myu-kikaku代表 / 吉城高校キャリア教育コーディネーター)

 

myu-kikaku代表として飛騨の木を使った製品開発「ひだ木フト」を企画・運営する傍ら、吉城高校でキャリア教育コーディネーターを務める盤所杏子(ばんじょきょうこ)さん。国立大学を卒業して大手企業に務めるなど一見、輝かしいキャリアを歩んできたイメージとは裏腹にその半生は挫折の連続、暗黒期でした。

初めて明かす盤所さんの等身大のストーリー、暗闇でもがき続けた半生をご覧ください。

主役から一転、挫折と暗黒の大学生活

千葉県船橋市で生まれました。小学校3年生の時、一つ上の兄の喘息療養がきっかけで母と3人で北海道に短期移住します。父は教員で千葉に残ったのですが、何度も往復している間に北海道を気に入り、教員採用試験を40歳で受け直して移住しました。旭川市に家を建てたのですが、父は単身赴任で帯広・釧路・札幌と転々としていましたので4人で生活した時間の方が短いかもしれないですね。

 

小さい頃は男子とばかり遊んでいました。ピアノにバレエ、リトミックなども習わされましたが、私自身は根っからの超体育会系だったみたい・・(笑)。男子に一人混じって野球部に入ったり、スピードスケート、ラグビー、乗馬、最終的に陸上へ。

 

高校一年生の時から、恩師の母校でもあった筑波大学体育専門学群に進学しようと考えていました。高校生活では陸上にひたすら打ち込み、七種競技と4×400mリレーでインターハイ出場も経験する充実した日々。そうして無事に進学した筑波大学で、想像していなかった変化が起こります。

 

茨城県に引っ越して初めての一人暮らし。それまで実家の門限や食事制限が厳しかった反動から、入学してから半年で15キロ太りました。でもそれ以上に、桁違いの才能を持つ仲間たちと出会ったことに、頭では分かっていたものの予想以上のショックがありましたね。


太ったことが原因でヘルニアを発症してしまい、陸上が続けられなくなりました。主務(選手兼任マネージャー)として、選手を支える裏方業務へ。裏方が嫌だったわけではありませんが、それまではある程度スポーツも勉強もできる、どちらかといえば主役側だった私は、競技で輝くみんなの輪から自然と自分で距離を取るようになっていきました。

 


それでも徐々に主務としての信頼を仲間たちから得ることができて、大学時代の友人は今でも一番心を許せる存在です。また主務を務める中で、全日本駅伝・インカレなどの大きな企画に携わった経験、そこで感じた魅力が私の仕事に繋がっていきます。

摂食障害を引きずり続けた会社員時代

就活の結果、幅広いサービスを提供する「楽天」の理念に惹かれて入社します新人研修はとにかく必死に頑張り、希望していた広告営業部に配属が決まりました。大企業や代理店を先輩と回らせていただき、毎日刺激的でしたが、正式に配属されて2ヶ月が経った夏頃には体を壊して休職します。結局、職場には戻れずに入社11ヶ月で楽天を辞めました。


実は大学2年生の時、無理なダイエットから摂食障害を患っていたんです。
私は摂食障害の中でも、ストレスから食事を極端に大量に食べてしまう過食症で、過食した後は罪悪感から無理やりトイレで嘔吐したり、下剤をいっぱい飲んだり・・。社会人になり環境が変わったら治るかなと思ったのですが、調子が悪くなると再発。ひどい時には一日4回吐いていた時期もありました。摂食障害に加えてオーバードラッグ(大量服薬)も併発し、心も身体もボロボロにしていました。

 

運良く筑波大学の事務として雇ってもらい、療養しながら馴染みあるつくばで少しずつ調子を取り戻しました。その後、リクルートのつくば支社で営業アシスタントのアルバイトを始めたら、偶然にも「札幌に帰りたいなら枠が空いているよ」と役員の方に紹介いただき、北海道に帰って人材系会社のリクルートジョブズに入社します。

 

営業メンバーとチームを組み、お客様の求人広告の原稿を作成したり、採用までのお手伝いをする仕事に携わりました。とても好きな仕事でチーム賞を取ったりとやりがいもあり、4年ほど務めたのですがまた体調を崩して休職します。暗闇に舞い戻って塞ぎ込んだ私を救ってくれたのは、大学時代からお付き合いしていた今の主人でした。

 

主人は体調を崩した私に、大学時代からずっと近くで寄り添ってくれました。大体の人はここまでめんどくさいやつなんて、引くか逃げると思うんです(笑)。でも主人はどんな時でもドンと構えている人。「一緒に生活していくならこの人しかいない」と結婚を決意し、主人の地元である飛騨市河合町へ移住しました。それが3年前、27歳の時です。

飛騨市河合町で、入院から起業の道へ

移住してみたら河合町は想像以上の田舎でした(笑)。4世代7人同居、隣近所みんな知り合いなんてありえない!と最初は思いながら、まずはこの土地を知ろうと親戚の紹介で、飛騨市の観光協会が運営する「飛騨の匠文化館」で働き始めます。飛騨の匠の技術を学ぶ中で大工さんとの繋がりができ、木育イベントなどにも携わるようになりました。そうして飛騨に移住して1年を過ぎるころ、息子を授かります。

 


子どもを産んでしばらくした頃、もともと活動的な私は子育てをしながら、木育イベントや地元の野草茶グループのお手伝い、他にもいろんなことにアンテナを張って参加していました。もちろん子どもは可愛くかけがえのない存在。ですが社会との接点が欲しく、取り残されていくような気がして焦っていたんでしょうね。やがて、「私は飛騨に嫁ぎ、家族を犠牲にしてまで何をしているんだろう・・。」と虚しくなり、とうとう倒れて入院してしまったんです。いい加減懲りろって感じですよね(笑)。

 

一週間入院した時に落ち着いて、自分の本当にやりたいことは何か?飛騨で家族も自分も幸せにできることは何か?今後のことを真剣に考えました。その結果、それまではまったく考えていなかった「起業」という選択肢に辿り着きます。今まで周りの評価や基準で生きてきた私が、始めて自分で決めたこと。不思議と自分で決めたことだと覚悟が決まりましたね。

「ひだ木フト」で本物を多くの人へ届ける。

そうして個人事業主として「myu-kikaku」を立ち上げて、今は「ひだ木フト」の企画・運営をメインに仕事をしています。きっかけは木育に携わる中で、市役所の方から「飛騨市の広葉樹」の有効利用に関して相談されたことでした。「ひだ木フト」では飛騨市の広葉樹(小径木)を活用し、新しい付加価値や可能性を創り出すことを目指しています。

 


同様のミッションを担い、先進的な取り組みをしている企業・団体はいくつかあります。その中で
私が大事にしたいことは、地元の作家さんの作品に込める想いや、衰退し始めている飛騨の匠の技術といった「本物」が持っている力を発信することです。既存の欠けている部分があるとしたら、見せ下手であり売り下手なところ。飛騨の人の良いところでもあるけれど、よそ者の私だから無遠慮に取り組めることだと思っています。

 

私はもともと田舎や自然よりも、都会の喧騒・ネオンの方が好きなんですよね(笑)。「じゃあなんでこの仕事をしているの?」とよく聞かれますが、最近は、「だから向いているのでは?」と思っています!とっても森が好きな人が森や木に関わる仕事をすると、興味がない人をどう好きにさせよう?どう上手く魅せよう?って発想にはなりにくいですよね。

 

 

「汚れるの嫌だなー。」とか「虫とかマジで無理・・。」と思っちゃう私が好きになるくらい、知れば知るほど飛騨の木、そしてその木から生まれる製品には魅力があります。その魅力を形にして、どんどん発信していくことが自分の使命だと思っています。

 

私自身が職人じゃないからこそ、作り手の職人さんを心から尊敬しているんです。良いものの良さを、作り手の想いをしっかりと乗せて、全国や世界に届けたい。なーんて、大きな夢は持っていますが、始まったばかりで実際は毎日不安だらけです(笑)。

 

高校生の意思決定を尊重したい

吉城高校の「YCK(吉高地域キラメキ)プロジェクト」に関わるきっかけは、関口祐太さんとのご縁です。昨年度、「三寺まいり」に関わるYCKの企画で、元観光協会の一員の私へヒアリングに訪れたんです。その時に企画への改善案を話していたら「じゃあ手伝ってくれない?」と誘われ、軽い気持ちで参加したらいつの間にか深く関わることに・・。

 

私はYCKで関わる高校生たちを、高校生ではなく一人の大人として接しています。やりたくないなら辞めたらいい。やると決めたならちゃんとやろう。「あなたはなんでそれをしたいの?」「じゃあどうしたらいいと思う?」そうした意思決定を重要視しています。私自身が、自分で意思決定してこなかった反省から、自分で決めたことに責任を持つということが将来の自信、生きていく強さに繋がると考えているからです。

 

 

どこまで委ねるかは難しいところですが、私はかなりシビアで厳しいと思いますよ。一方、パートナーの関口さんは、高校生や先生方と丁寧に対話を重ねて、お互いに分かり合う過程をとても大事にしています。そして、私の想いも代弁して伝えてくれる。この二人のバランスで成立しているので、本当に関口さんのような人と仕事ができて幸せです。

 


今年度からは吉城高校のコーディネーターを正式に
委託されており、成果を出さなきゃいけないプレッシャーはあります。私もそれに応えるべく、キャリアコンサルタントの国家資格を先日取得しました。でも一番大事なのは、生徒がやりたいことに挑戦すること。その結果失敗したり、後悔が残ってもいい。無理に上手くいく方に誘導していくのは大人のエゴ。その優先度だけは見失わないように、関口さんとも常日頃話し合っています。


実際に昨年YCKリーダーを務め卒業した坂下拓夢くんのような、前向きな高校生の成長過程に立ち会えたのはすごく嬉しいです。しかし、こうしたYCKの課外活動やキャリア教育は、生徒の成長要素の一つに過ぎません
。自分の夢に向けて勉強したり、部活に一生懸命取り組んだり、今は熱中することがなくても大学や就職先で花を咲かせるかもしれない。もっと自由にいろんな在り方があっていいし、誰かと比べて自己嫌悪する必要は全くない。そう思うんです。

 


吉城高校の先生や関口さんの始めた取り組みが、生徒の成長のチャンスを広げているのは間違いないと思います。でも
きっと私たち大人にできることは、高校生が壁にぶつかって心がポキっと折れた時に、どん底まで落下しないよう構えていてあげること。折れる経験自体はいいと思うんです、そこから学ぶんだから。

挫折し続けてきた私だから、伝えていく覚悟。

飛騨市で好きな場所は、真宗寺の近くの今宮橋です。瀬戸川の白壁通りももちろん好きですが、川と橋は高校時代を過ごした北海道旭川市を思い出します。

 

 

「YCKプロジェクト」と「ひだ木フト」、全く違うことをやっているよね?と言われますが、ヒトを育てればモノも育つと考えているので、私の中では一貫しています。「ヒト」と「モノ」はどちらも大事な地域資源であり、よく言われる「よそ者・若者・ばか者」の私だから引き出して伝えられることが、まだまだたくさんあると信じています

 


「田舎に嫁いで来たら子育てに集中しないといけない」私もそう思い込んでいたのですが、そんな先入観や固定概念を崩していきたいです。自分のやりたいことには素直に挑戦してもよい、そう飛騨の女性たちに感じてほしい。

 

おこがましいけれども、飛騨で働く女性のモデルケースになれたら、そんな覚悟で仕事をしています。だから絶対に妥協はしない。私の場合は、理解のある主人やいつも支えてくれる同居の家族、そしていつでも笑顔をくれる息子がいるからこそ挑戦できています。もちろんみんながみんな同じではないですが、だからこそ感謝を形にできるまで、諦めずにやり続けることが家族や地域への恩返しです。

 


元気でエネルギッシュ、都会から来たキャリアウーマンといったイメージを持たれることが多いようですが、とんでもない(笑)。私の半生は挫折の連続な上に、今だって毎日弱音を吐き、頭はパンク状態。でも子どもを産んで、起業してからの私は「覚悟」という武器を手に入れたのかな。


表には出ないだけで、飛騨にも精神的に苦しんでいる人はきっとたくさんいると思います。特に過食症は一見分からなかったり、日中は元気だったりするから。家族や周りの支えがあって私は乗り越えつつあり、だからこそ今はこうして話せるんでしょうね。人の全部を理解しようなんて到底無理だけど、知りたい、力になりたいという想いはおせっかいでも持ち続けたいです。

 

 

厳しさも優しさも、強さも弱さも背負い、真っ直ぐに決意した盤所さんの覚悟
何度もつまづき辿り着いた飛騨の地で、盤所さんだからこそ描ける在り方が、次の未来を創る飛騨人を育てていくはず。ブレない覚悟を武器に、盤所さんは飛騨の「ヒト」と「モノ」へ真摯に向き合い続けます。

連絡先

盤所杏子(ばんじょきょうこ)
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myu-kikaku(みゅーきかく)

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この記事を書いた人

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丸山純平

丸山純平(まるやま じゅんぺい)
高山市出身。株式会社ゴーアヘッドワークス 企画/ライター
ヒダストのほぼ全ての記事を書いています。
最近は飛騨ジモト大学の事務局も担当。
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