自分事として、小坂の滝と生きると決めた ー 熊崎潤 (NPO法人飛騨小坂200滝 事務局 / ネイチャーガイド)

photo by 竹本純

 

落差5メートル以上の216箇所存在する、下呂市小坂町

「NPO法人飛騨小坂200滝」の事務局兼ガイドとして、「小坂の滝めぐり」「小坂なシャワークライミング」を仕掛けるネイチャーガイド 熊崎潤さんの奮闘を追いかけました。

取材時にご案内いただいた「濁河(にごりご)温泉」の奥地で垣間見た「氷瀑(ひょうばく)」と共に、熊崎さんの覚悟と決断の半生をお楽しみください。

「走高跳」にのめり込んだ中学校、挫折ばかりの大学生活

下呂市小坂町で生まれました。3つ上の姉がいる、二人姉弟です。小さい頃は野生動物とほぼ一緒でしたね。裸足で外を走り回って、奇声を発していたそうです(笑)。自然の中で活発に育ちました。

 

人生で一番のめり込んだのは、中学校の陸上部で出会った「走高跳」です。それまで足の速さには自信があったのですが、中学校で勝負にならないくらい速いやつがいたんですよ。「誰もやっていない競技じゃないと勝てない」そう思っていた矢先、先生に勧められて始めました。

 

予想以上に背面跳びの難易度が高いんです。「マスターしたい!」との思いから、朝一に学校に行っての朝練から始まり、昼休みには昼練、通常の部活の後は居残り練とかなりストイックに取り組んでいました。自分一人で、準備から練習まで完結できるのも大きな要因でしたね。

 

身長が160センチに届かなかった僕ですが、3年生の時には180センチ飛べました。しかし競技としては飛べた高さが全てです。東海大会へ進んだ時に、身長180センチ以上のスーパー中学生がいっぱいいるんですよ(笑)。みんな自分の身長以上は飛べるから、僕は予選敗退です。そこが一つのゴールで、良い意味で諦めがつきました

 

photo by 桂川融己

 

その頃、将来の夢はなかったですね。大学を卒業して普通にサラリーマンになるかなと、斐太高校に進学します。高校時代は一番自我がなかったかもしれません。淡々と過ぎていく時間で、友人と深い関係も築けない。周りの友人に引っ張られてテニス部に入ったものの、部活はそっちのけでスケボーに興じる毎日でした。

 

進路を考える際に「小坂から出るなら世界まで出よう!」と思い、国際系の学部に惹かれていろいろと受験した結果「南山大学総合政策学部」に進学します。大学生活一番の失敗はテニス部に入ったことですね(笑)。バイトする暇もないくらい本当に忙しくて、「部活をやるために大学に入ったのか?」そんな疑問から2年生で辞めました。

 

当時は愛知万博の開催前で、環境問題・教育が熱い時期でした。僕も自然の中で育ったためか関心が高く、環境先進国のスウェーデンに留学しようと一念発起。勉強するもののTOFEL(英語能力測定試験)で全然点数が取れなくて、挫折してしまいます。留学を諦めてからは惰性で過ぎる日々。大学生活はチャンスと思っていた割に、やりきる経験がありませんでしたね。

「飛騨産業株式会社」に入社し、世界を飛び回る

そんな状態で就活の時期を迎えまして、具体的な職業は思いつきません。相変わらず環境・自然には関わりたかったのと、海外に出る機会にも憧れていたんです。地元でそんな会社ないかなと探し当てたのが、木工家具メーカーである「飛騨産業株式会社」でした。

 

思い返すと中学生の頃、親父と軽トラに乗って里山に遊びに行くのが好きでした。家を建て替えた際に、薪ストーブを導入したんですよ。それからは定期的に森に出かけて、材木を切り倒してはクレーン車で集材する林業業者みたいな生活をしていたんです(笑)。そんな原体験もあって日本の材木利用に関心が高く、飛騨産業はベストヒットだったかもしません。

 

僕が入社した当時、木材の仕入れ担当の方が定年まで残りわずかという状況で、「熊崎に継がせよう!」と集中的に育てていただきました。同期の中でも異質ですよ。当時は木材の約8割をアメリカと中国から輸入していたこともあり、かなりの頻度で海外出張に行きました。

 

photo by 桂川融己

 

趣味のスケボーやアウトドアなど、プライベートでも同僚や先輩とも気が合ったので日々をエンジョイしながら、比較的早いスピードで昇進もしていきます。しかし同時に、組織に取り込まれて抜け出せなくなることへの不安感もありましたね。また、僕は誰よりも早く出社することが正義だと考えていたので、朝6時には出勤して帰宅するのは21時・・毎日そんな生活です。

 

いつか生まれる子どものことを思ったら、現状の生活スタイルには疑問符がつきました。そうして、僕が飛騨産業に入社したのと同時期に設立された「NPO法人飛騨小坂200滝」に強く惹かれていきます。

「NPO法人飛騨小坂200滝」と出会い、流れが変わる

1981年(昭和56年)に小坂町周辺の滝に関する調査が始まり、落差5メートル以上ある滝がなんと216箇所もあることが判明しました。その調査資料をもとに写真集「小坂の瀧」が刊行され、各家庭に一冊ずつ配られたのです。僕はその写真集が大好きでした。

 

滝調査はしたものの長年、資源の有効活用ができていないまま。なんとか滝を活かせないだろうか。地元の商工会が中心となって、小坂の滝めぐりコースを創ったのが2004年になります。

 

そうしてルートはできまして問い合わせが来るものの、今度は案内するガイドがいません。ガイドのニーズがあることにいち早く気づいていた、当時の下呂市役所小坂地域振興事務所所長の桂川淳平さんが同級生などに声を掛け合い、最終的には役所を早期退職して立ち上げたのが「NPO法人飛騨小坂200滝」だったのです。

 

photo by 桂川融己

 

NPO発足の新聞記事を見つけた時は「僕のやりたかったことが先を越された!」くらいの気持ちで、今思うとすごく生意気(笑)。僕も2009年頃から、週末限定ではありますがボランティアガイドとして活動に関わり始めます。

 

そうして取り組む中で2008年、岐阜県の観光振興事業である「岐阜の宝もの」第一号に認定されました。県が3年間バックアップしてくださったおかげで「小坂な冬の滝めぐり」を始め、いくつかの事業のベースを形作れましたね。

 

しかし滝ガイドを担い、他メンバーのほとんどを占めているのは60代半ばのおじさんたちです。予算が切れた後は存続も難しく、いずれ消滅してしまうのは明白でした。「誰かが引き継いでやってくれるだろう」そう考えていた僕も徐々に危機感を抱き、「誰もやらないならば僕がやろう」と決意します。

 

周りからは「お前アホだろ」「そんなものは仕事じゃない」と言われ、反対の嵐でした。ちょうど子どもが生まれるタイミングで、子どもの顔を見ない生活はしたくなかったんです。それもあって奥さんは納得してくれて、周囲の反対を振り切り、29歳で飛騨産業を辞めました。

小坂の滝でメシを食う。覚悟の新規事業

最初の半年は収入がなく、夜は旅館でアルバイトをしながら昼間に滝の仕事を続けました。奥さんが働いていたので、ヒモ生活ですよ。「自分は何者なのだろうか?」と問いかける孤独な状態で、世間の目が気になりましたね。

 

それでも「絶対に滝事業は伸びるし、僕はこれでメシを食っていくんだ!」その想いだけはブレていません。とはいえ今だって実験段階の人間なので、よく分からない自信です(笑)。しかし誰かがやらなければいけない。明確に「自分のポジションはここだ」という意識があったのです。一番ありがたいのは奥さんに理解があったこと。「なんとかなるやろ」の言葉に支えられてきましたね。

 

photo by 桂川融己

 

そりゃ、今まで通り勤め人であった方がある意味楽でしたよ。今のように年中無休ではないし、生活だってもう少しちゃんとできる。だけど自分で稼いで、商売している実感は大きいですよね。その実感が宿った事業が「小坂(おさか)なシャワークライミング〜 清流アドベンチャー 〜」です。

小坂の清流はとても冷たく綺麗な水なので、夏の時期には最高です。「鼻から入る水すら美味い」と紹介しています(笑)。そんな清流や沢で目一杯遊ぶ、この企画にはすごく自信がありました。

 

しかし企画当初、周りのおじさんたちには反対されます。僕は強硬派だから「リスクないからやろうよ!」と、全額助成される補助金を取ってきたんです。でも当時の僕がアホだったのは、補助金が後払いだったんですよね・・(笑)。最終的には淳平さんが借金をしてくれて、なんとかなりました。補助金をベースにライフジャケットなどの備品を揃えて、先進事例のもとで修行しながら3年間モニターを繰り返します。

 

最も情熱を注いだ結果、0から年間300万円を稼ぐ事業モデルへと成長しました。客層の中心は30代の女性で、名古屋からお越しになる方が多いです。嬉しいことに、最もお客様のリピート率が高いコンテンツでもあります。

 

しかし、この事業をほぼ一人で運営していた時期は地獄でしたね(笑)。早朝の事務作業に始まり、日中は絶え間なくお客様のガイドをして、終了後はウェットスーツを全部洗って干して帰ると22時。それがほぼ毎日続くので、夏場は体脂肪率が5パーセント下がります。一日5食食べるくらい、体力勝負なんですよ。インターン生を雇ったことで死なずに済みました・・(笑)。

ガイドの仕事の本質は「水商売」と同じ

コンテンツの企画は、どれだけ素人レベルに落とし込めるのかが勝負です。アウトドアの玄人ほど自分でやっちゃいますから(笑)。つまり僕自身が一番楽しいことは、一般のお客様には辛すぎる体験なのです。「自分の楽しい」を押し付けるのではなく、「お客様の楽しい」を提供する。つまりはサービス業なんですよね。

 

地域のおじさん連中に「お前らのやっていることは水商売やぞ」と言われた当時は傷つきましたが、今では誇りに思っています。本質的には全く同じで、いかにお客様を気持ちよく満足させてあげられるのかが仕事なのです。「酒を飲むのか、沢の水を飲むのかの違い」これはうちのシャワクラ・エースガイドの言葉です(笑)。

 

ありがたいことに年間10回以上のリピーターもいらっしゃる今では、名キャバ嬢に弟子入りしたいくらいですよ。どれだけお客様の気持ちを察して、いやらしくない気遣いができるか。僕は苦手なだけにもっと勉強したいですね。ようやく最近、これは面白い仕事だなと思えるようになりました。

 

photo by 丸山純平

 

ガイドに関わる人のストーリーやキャラクターが一番の魅力かもしれません。とあるコアリピーターの方は「熊崎さんのオススメなら間違いないから、とりあえず連れてって」とおっしゃいます。信頼していただいている証であり、つまり楽しむ場所はどこでも良いんです(笑)。

 

小坂を始めとする飛騨には、たくさんのお客様を満足させられるフィールドがあると断言します。だからこそプロガイドをどんどん養成して、品質の高い観光案内を飛騨一丸となって提供したいですね。そんなミッションから「飛騨の森ガイド協会」の設立にも尽力し、自然観光ガイドの普及と養成を行なっています。今後の飛騨地域の観光の軸となるはずです。

豪雨災害は「リニューアル」。自分事として取り組み続ける

「一番好きな滝はどれですか?」と、よく質問されるのですが、「一番好きな滝はありません」と答えます。誤解なくお伝えしたいのですが「小坂の滝」は一つの要素であって、正直言えば「滝」そのものにそこまで興味はないです。

 

滝が単独でポツンと出てきてもあまり感動はないですよね。森を抜けて谷を歩いて、沢を登って行った先になにか来るぞ・・出た!そんなイメージです(笑)。だから滝単体ではなくて「小坂の谷」全体が好きなのです。魂が落ち着く場所ですね。

 

photo by 丸山純平

 

昨年6月に発生した豪雨災害では、被害がひどく復旧作業もとても大変でした。だけど、大変さをアピールしたところで誰も喜ばないですよね。幸い、人は亡くなっていません。自然と寄り添っている限り、こういうことはあります。

 

昨年の災害を一言で言うならば「リニューアル」です!至るところで大きく地形が変わり、幸運なことに滝がダイナミックに見やすくなったんです。その変化に立ち会えたのは、自然と共に生きている身としてハッピーでもあります。

 

photo by 丸山純平

 

復旧作業を進める中でより実感したのですが、一つの遊歩道を設置するのにもたくさんの人力が必要です。「守り人」がその地に住み続けない限り、地域は存続できません。そして当然ですが、他人事ではなくて自分事じゃなければ、その土地に住まないですよね。

自分事にしていくのが大事だからこそ、地元の子どもたちへの観光教育にも力を入れています。そう思うと一度、飛騨の外を経験してくることは必須かもしれません。それに地元の外からできる応援・支援もあります。

 

僕はこれまで、たくさんの応援してくださった方のおかげで事業を続けられました。同様に「どうせ補助金頼りなんだろう」「そのうちすぐに潰れるな」と、冷ややかに見る方もたくさんいらっしゃいました

 

しかし5年経った今、エコツーリズムが下呂市の観光の柱になり、着地型観光をどんどん組み込んでいく姿勢に変わりました。感慨深いですし、次のステージに変わった以上、トップランナーとして転ぶわけにはいきません。

この町の未来を自分事として、日々できることに取り組んでいきます。ぜひリニューアルした小坂の滝へ、遊びに来てもらえたら嬉しいですね。

 

photo by 竹本純

 

自分事として取り組む熱意決断が、地域の未来を切り開く。

小坂と共に生きる道を選択した熊崎さん、その裏には数知れない苦労と葛藤がありました。そんな熊崎さんとだからこそ、一緒に見た氷瀑の美しさも、道中の楽しい時間も忘れられないのかもしれません。

連絡先

熊崎潤(くまざきじゅん)
https://www.facebook.com/jun.kumazaki

小坂の滝めぐり
https://www.osaka-taki.com/

飛騨の森ガイド協会
http://hidanomoriguide.com/