「優しいまちづくり」で、飛騨から生きづらさをなくしたい ー 丸山純平 ( 株式会社ゴーアヘッドワークス ライター / 「ヒダスト」編集者)

 

初めまして。ライターのMEGUと申します。
今回は特別編として、ヒダスト編集者丸山純平さん自身のインタビューをさせていただきました。

 

株式会社ゴーアヘッドワークスにライターとして所属し、飛騨人インタビューメディア「ヒダスト」の編集者でもある丸山純平さん。

 

彼自身のインタビュー記事を待っていた方もいらっしゃるのではないでしょうか。この度、満を持しての登場です。

 

彼は、飛騨の素敵な大人たちと深く対話し、受け取った想いをシェアし続けています。
そんな彼自身が、これまでどんな人生を生き、そしていま、なにを想うのか。

 

ヒダストを、そして彼を愛するすべての皆様へ、このインタビュー記事を捧げます。

※当記事は、取材・原文執筆を担当したライターMEGUと、編集を担当した丸山純平のコラボ記事です。

離れている時間は多かったけど、母への想いは深い・・・小学生時代

高山市上岡本町に生まれました。二つ下の弟と二人兄弟。いつも笑顔で、人見知りはなかったみたいです。恐竜が大好きで、図鑑をひたすら読んですべての恐竜の名前を覚えていました。家にあったたくさんの絵本を読んでいたのもあって、文章を読むのは苦手じゃなかったかも知れません。父も読書が大好きで、本なら何でも買ってくれたこともあり、読書はずっと続いている趣味です。

 

きれいで優しい母と、無口だけど信じて委ねてくれる父。だけど物心ついた頃から、健康な母の記憶はありませんでした。僕が3歳の頃には、母は重度のうつ病で入退院を繰り返していて、一時期は両親と僕と弟だけで花里町の借家に引っ越しました。

 

小さい頃の記憶は断片的にしかないんですけど、その家の間取りとか雰囲気をすごくよく覚えています。母のうつ病の波はありましたが、その時の家族の時間はすごく幸せな記憶として残っていて。最初で最後の家族の団欒だったかもしれません。

 

 

僕が小学校1年生から3年生の頃、母は長期の入院が続いている状態でした。僕も母の家と父の家とを行き来する生活です。

スポーツは得意じゃなかったため、カードゲームや携帯ゲームで友達とよく遊んでいました。そろばんを習っていて、暗算が得意になったことが勉強にすごく役に立ちましたね。母の入院先にお見舞いに行くときは、対向車のナンバープレートを全部足していました。

 

高学年になる頃は母の容体もだいぶ落ち着いてきて、退院して自宅療養する時間が増えました。離れている時間が長かった分、母に対する想いは深かったですね。あまり表には出しませんでしたが。

中学から高校時代。そして、母との指切り

中学生になり、父のもとで暮らすことになりました。この頃はもう母は大丈夫だと思うくらい、良い方向へ向かっていると感じていたんです。携帯電話を持つようになり、母とメールのやりとりをするようになって。高校に入ってすぐの春、母から「本当につらい、死にたい」とのメールをもらったんです。

 

「わかった。わかったけど、弟が成人式を迎えるまでは生きよう。そこまではお母さんとしての責任があるんじゃない?それ以降はいいよ。まずはそこまでは生きよう」そう返しました。

 

弟が成人式を迎える頃には、僕が母に対してできることも増えるはずだから、なんとかなると思いました。死なないでという言葉は、伝わらない気がしたから。後日会ったときもちゃんと話をして、母もわかったと言ってくれたんです。約束ねって指切りもしました。

 

高校生になってからは割りと頻繁に、学校帰りに母に会いに行きましたね。心配もありましたし、母が寂しかっただろうと思ったのと、今まで過ごせなかった時間を埋めるような日々でした。

 

そんな日々が半年続いた秋頃、ちょうど僕は中間テストの真っ最中。テスト帰りに母の家に寄ったら、その日の母はすごく体調が悪そうでした。でも僕はいつものことだと思って、あんまりちゃんと応対しなかったんです。

 

「明日もテストだから帰るね。また来るね」って・・・。母はその日の夜中、自ら命を断ちました。

僕の内側のすべてが崩れ去った日

昔から自殺未遂を繰り返していたから、想像していないことはないんです。とはいえ、実際に・・・。いつかまた家族4人で幸せに暮らせると思っていたのに。ずっと、ただただ、普通に幸せになりたかっただけなのに。僕にはもう、普通の幸せは訪れないんだと思いました。

 

お葬式の前後の記憶も、全然なくて。家族にとっても相当な喪失感でした。「1ヶ月くらいは学校休んでいいよ」と言われたんですけど、そんなに休んだら日常生活に戻れないような気がして。とにかく戻ろう。僕まで母のようになっちゃダメだと思いました。

 

数日前まで笑顔で一緒にごはんを食べてた人が、もう二度と帰ってこない。僕にとってすごくすごく大切な人がこの世から消えても、ちゃんと世界は回っていく。それは悲しくむなしいことではあるけれど、そういうものなのかな。死因が自殺だったことは伏せられていて、僕も周りに特に何も言わず、何事もなかったかのように学校に行きました。外側では何も変わらない日常が続いていたけど、僕の内側ではすべてが崩れ去っていました。

 

それからはゲームに逃避する生活です。それが当時は救いだったと思うし、周りからも何も言われませんでした。父親に言われるがまま、公務員試験に強い岐阜大学地域科学部を受験します。でも僕はただ、ゲームをやることしか考えていなかった。

 

入学してからもあまり友達はできなかったですね。長期休暇なんて特に暇なんですよ。サークルだ彼女だと盛り上がってる同級生がうらやましい気持ちもありましたが、ひたすらゲームに没頭したり、小説や漫画を読んでいました。ずっとモヤモヤを抱える日々でしたが、この時期があってこそ、いまの僕があるんだなとは思います。

フリーペーパー作らない?人生のターニングポイント

そこで来たのが僕の人生のターニングポイント、岐阜の魅力を伝えるフリーペーパー『GIFT』を作る「学生団体岐阜人(ぎふと)」への加入です。僕は当時、クレープ屋でバイトしていたのですが、店長から「『GIFT』に広告を載せたい」と言われたんです。「岐阜人」に加入していた同級生の女の子に尋ねたら「ミーティングへ来て」と言われて、流れでそのまま加入することになりました(笑)。誘ってくれた女の子には本当に感謝しています。

 

 

「岐阜人」は大学生だけで活動している団体です。営業に行ってお金を集め、企画・取材・編集して、フリーペーパーを3ヶ月に1回発行しています。それまでコミュニケーション能力皆無で、最初は先輩たちからも「大丈夫か?」と思われていた僕でしたが、夏休みもひたすらフリーペーパーを作るために事務所に泊まりがけで取り組みました。

 

メンバーたちと一緒に創り上げる楽しさを知り、なんだかもうとにかく夢中でした。せっかく作ったフリーペーパーを届けたかったし、自分でも繋がりを作りたくて。岐阜の様々なイベントや講演会、ボランティア活動にも顔を出し始めました。こうして「まちづくり」の場に関わるようになり、たくさんの大人たちに出会います。

 

 

活動に傾倒していく中で気づいたことなんですが、「まちづくり」ってマジックワードなんですよね。いろんな解釈ができるし、逆にぼやかしたりもできる。自分がどうしてこんなにまちづくりに惹かれるんだろうとか、まちづくりとはなにか、答えを模索したいと思うようになりました。

 

 

この頃から、東海地方や全国の大学生と交流する機会にも恵まれて、そこで自分のやりたいことに突き進む同世代の仲間にたくさん出会ったんです。就活前にもっとまちづくりとはなにか模索したい。初めて自分の意思でレールを外れることを決めて、大学を休学します。

 

 

休学期間中は全国的に大きな流れのあった「わかもの会議」を岐阜で立ち上げたり、大手企業でのインターンを経験したり、スポンサーを募って岐阜駅前で学生向けフリースペースを営業したり、ビジネスコンテストに参加したり・・・。様々な場所や機会に足を運び、たくさんの出会いと経験を得ることができました。180度、人生が変わりましたね。

 

地元との繋がりが生まれる

この頃までは、卒業後も岐阜市に住み続けようと考えていました。でもここで、再びの転機があります。僕が高山出身だと知っている友人の江口春斗が、飛騨初のコワーキングスペース「co‐ba HIDA TAKAYAMA」ができたという話を教えてくれたんです。

 

 

衝撃でしたね。地元にもそんな面白い大人がいるなんて知らなくて。実際にco‐baのオーナー、住尚三さん、浅野翼さんにもお会いして、ここから地元との繋がりが生まれ始めました。

 

地元のいろんな大人たちと関わりながら、岐阜に住もうと思っていた僕の気持ちも「地元、いいな」と変化していきます。高校の同級生とイベントを開いたことがきっかけで、高校生のフリーペーパー制作団体「HIDAKKO PROJECT.」の創設にも携わりました。「岐阜人」での経験が繋がって嬉しかったです。

 

 

飛騨の大人たちから大きな影響を受けたこともあり、昨年くらいから飛騨人インタビューメディアの構想はありました。でもどう始めて、続けたらよいのか分からなかったんです。

 

その頃に、結婚を考えるほど長く付き合っていた彼女から、突然別れを告げられることも重なったりして。落ち込んでいる僕を、繋がりがあったゴーアヘッドワークス代表の蒲優祐さんが飲みに誘ってくれました。

 

その席で「丸山くんのやりたいことは何?」と水を向けられて。そこでインタビューメディアをやりたいって話をしたんです。そうしたら「うちの会社でやったら?」と言ってくださり、この4月から入社させていただき、ヒダストを立ち上げ、現在に至ります。社内のライティング業務にも携わりながら、修行の日々です。

 

 

輝いている大人たちの姿が、僕を救ってくれたから

高校生や大学に入りたての僕は、社会に希望なんて持っていなかった。だけどフリーペーパーを作りはじめてから怒濤の勢いでいろんな経験をし、たくさんの素敵な大人たちや支えてくれた仲間たちとの出会いが、僕の心に希望を灯してくれました。

 

岐阜大学の高木朗義教授は、岐阜人に加入した頃からずっと応援してくださっていて。高木先生が背中を押し続けてくれたからこそ、自ら手を挙げてチャレンジし続けることができました。僕にまちづくりを教えてくれた、原点の方です。

 

また僕を対話の場に導いてくれたのは岐阜県職員の樋口克孝さんです。「身近なまちづくりから地球の裏側の出来事まで、あらゆることが引き剥がせない一つの塊になっているのが、この世の中。 いろんな人から見える景色を対話を通して共有したとき、変える手がかりが見えるはず」そんな樋口さんの思想と価値観が僕のベースを形作っています。

 

それから「まちづくりは本気の子育てだ」という、NPO法人緑塾の松尾和樹さんの言葉がすごく腑に落ちていて。自分のこどもや大切な友達のこどもが、これから生きていく社会のことは他人事じゃありません。

 

挙げ続けたらキリがないくらい、僕はたくさんの師匠や仲間たちからいただいた言葉と想いで形成されています。

 

そんなワクワク、イキイキと自分の人生を生き、自分の使命、生き甲斐、解決したい課題を追い、次世代に還元しようと行動する人が大好きです。そんな大好きな人たちは、飛騨にもたくさんいらっしゃいます。だからヒダストを通して素敵な飛騨人を紹介して、誰かの希望になれたら嬉しいです。

「飛騨から生きづらさをなくしたい」

それから、僕のなかには、昔からずっと母のことがあって。「飛騨から生きづらさをなくしたい」という想いは強いです。生きづらさも人それぞれなんですけど、個人で抱えて孤独になったりしないように、社会が安心できるような優しい器だったらいいな。

苦しいことや悲しいことは、生きていれば当然あります。だけど、安心して苦しんだり悲しんだりできる世の中であってほしいんです。

 

例えば、僕は大学ではLGBT(性的少数者)やジェンダーを中心に研究をしていたのですが、今の時代はいろんな家族のあり方や愛のあり方が可視化され、尊重されてきています。他人にその在り方をジャッジする権利はありません

 

もちろん基本的人権の尊重が前提ではありますが、どんな価値観の人でもありのままに生きることが損なわれない社会になればと思っています。みんなが自分らしく幸せで在れたらいいですね。それが僕の目指すまちづくりの一つであり、いつかは自殺者ゼロの飛騨を実現させたいです。

 

 

そのためにも、もっともっと優しくなりたいです。優しくなるために、いろんな人の痛みや背景へ寄り添いたい。純平という名前の通りに、純粋に平和を愛して生きられたらいいな。生きづらさをなくした先には平和があると信じています。

 

これからもいろんな人と対話を重ねて、それぞれの素晴らしい人生に学んでいきたいと思います。取材したい飛騨人は、まだまだたくさんいらっしゃいます。そんな素敵な飛騨人に囲まれて、この飛騨の地で生きていきたいです。

 

今回は特別編として、ヒダスト編集者丸山純平さん自身のインタビューをさせていただきました。

 

「生きづらさをなくしたい」

「優しいまちづくりに関わりたい」

この言葉の奥底に、「人」というものを本当に愛しているんだな、ということが感じられたインタビューでした。

 

彼の手によって紡ぎ出される、深い深い対話から生まれた優しい言葉たちが、誰かの希望となり次の人へとリレーしていく。

 

それもまた、優しいまちづくりへと繋がっていくのだろうなと思いました。

【credit】取材・原文執筆:ライターMEGU 編集:丸山純平

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