Apple Macintoshとドラッカーで、未来を創造する。ー 武田 晃彦 (株式会社サラニ代表取締役)

 

飛騨地域の数少ないWEB制作会社「サラニ」を経営する武田晃彦(たけだあきひこ)さん。しかしそのファーストキャリアは「保育士」?人生を変えたのは「Apple Macintosh」と「ドラッカー」??

偶然が次の偶然を呼び、夢中で創ってきた点が線となっていく。武田さんのドラマチックな半生をどうぞご覧ください。

ファーストキャリアは保育士

東京都渋谷区で生まれました。でも4歳の頃、両親の離婚をきっかけに母親の実家の高山へ引っ越し。物心ついた頃には高山にいて、父親の記憶もわずかしかないですね。

 

50年前の当時は、離婚して女手一人で子どもを育てるなんて難しい時代ですよ。幸い母親の実家が古い町並みで商いをしており、ちょうど高山市が昭和45年の国鉄のキャンペーン「Discover Japan」で注目された。その観光産業の景気に助けられたんです。

 

当時の高山はものすごい発展でしたよ。舗装もアスファルトじゃない、木造住宅ばかりで車も珍しい時代。材木置き場と田んぼしかなかった景色が整地されて、大きなホテルや住宅街、遊技施設が続々と建設されていくんです。10年も満たない間に、町の景観が大きく変わった。だから子ども心に高山が発展していくのを感じていたんです。

 

音楽にハマった学生時代でした。中学校の時にKISS(キッス)ブームが来まして、ハードロックやヘビメタに傾倒していきましたね。

 

 

吉城高校に進学して、好き勝手にけっこう遊んでいたんです。その反省から教育者になりたいと思い、その中でも幼児教育に携わろうと決めました。それで名古屋の保育専門学校に進学したんです。今でこそ男性保育士は珍しくなくなりましたが、当時は一学年280人中男子は2人。天国か地獄か、それはご想像にお任せします(笑)。

保育士からバンドマンへ

保育士は当然ピアノを弾けなければなりません。僕も高校3年の秋から習って多少は弾けるけれど、小さい頃から弾いてた子には敵わない。そこで自主練習するために、バイトで貯めたお金でシンセサイザー(電子楽器)を買ったらどハマりし、専門学校で学びながらバンドを組んで音楽活動をしていました。

 

卒業後は三重県の幼稚園に勤めました。当時、男性保育士は皆無でしたから、幼稚園側も客寄せパンダとして雇ったんですかね。年中さんの担任を任されて一生懸命頑張ったけど、ボロが出てくるんですよ。細やかな気遣いができなかったり、保護者に書く日報も思うように文章が書けない。やっぱり無理だなと思い、一年で辞めました。幼稚園を辞めた後はアルバイトや契約社員で働きながら、バンドでプロを目指して音楽活動に専念する日々を送ります。

 

「TM NETWORK」が人気になる前に、ギターやベースを弾きながらシンセサイザーなどの電子楽器も同時に演奏していたんです。ちょうど劇的にデジタルミュージックが発展していく時代で、複数台のシンセサイザーをコントロールできるパソコン「Apple Macintosh」を25万円で買いました。3ピースバンドだったのですが、6人分の音で演奏できるんですよね。このApple Macintoshが私の人生を大きく変えていきます。

 

 

僕らのバンドは名古屋のCLUB「QUATTRO」で250人集めてライブができるほどの人気で、レコードデビューの話も持ち上がったのですが、運悪くデビューには結局至りませんでしたね。28歳まで音楽活動を頑張り、悔いがないくらい精一杯やりきったので潔く解散しました。

Macintoshが導いた、時代の最先端

音楽活動に区切りをつけて仕事をどうしようか。就職雑誌を見ていたら「Macintoshの製版オペレーター募集」という求人広告を見つけたんです。よく分からないけどMacintoshは所有しているから、軽いノリで名古屋の印刷会社を受けました。

 

面接に行ったら「Macintoshって知っている?」と聞かれて、当然「持っています。」と答えたんです。そうしたらいきなり採用!かつ部署長を任せられましたね。その会社のどのスタッフよりも、Macintoshに詳しかったんですよ。

 

時代の変わり目だったんですね。徹夜なんて当たり前で、本当に忙しかった。社会そのものがものすごいパワーでデジタルへ移行していた時代です。その最先端で仕事をしていたので、関わるクライアントの熱量も高い。Macintoshを使ってどう仕事をするのかなんて、当時はマニュアルどころかホームページで調べることもできない。手探りで時代を拓いていく、カオスでエネルギッシュな草創期ですよ。

 

とはいえ忙し過ぎてもうヘトヘトで、辞表を出したんです。そうしたら社長から「2000万円預けるから1年でマルチメディアの部署を立ち上げろ。」と言われて、興奮しちゃうよね。「はい!やります!」と言って、社内ベンチャーとしてWeb制作・3DCG部門を立上げました。当時CD-ROMや3Dムービーが出始めていて、業界初のTVコマーシャルをオール3Dで作ったりしましたね。今に繋がる、かけがえのない経験です。

「飛騨の未来を創る」サラニを起業

最初にお話ししたように僕の原点は、高山市の発展への感謝なんですよね。観光産業の成長のおかげで、母子家庭だった我が家が生かされた。年齢を重ねるほど価値観に大きな影響を及ぼして、「高山のために働こう」と思うのは自然なことだったんです。

「仕事を出すから独立しろ。」と背中を押してくださるお客様にも恵まれて、42歳で高山へと戻り株式会社サラニを起業しました。企業理念は「飛騨の未来を創る」です。

 

 

しかし最初は飛騨で繋がりがなかったこともあり、なかなか通用しなくて苦戦しました。悩んでいた時にある社長さんから「あなたは◯◯会社の△△社長のホームページを作っとるんやな。」と言われて、名古屋との決定的な違いに気づいたんです。名古屋では「あなたはあの会社のホームページを作ったんですね。」と企業名で仕事に繋がる。でも飛騨は「人」が大事なんだ!とにかく人に会わないかん。そこで地域のキーパーソンが集まる様々な会合に足を運び、身体を壊すくらい一緒にお酒を飲んで、自らの理念や想いを根気よく伝え続けました。

 

そうしてありがたいことに飛騨の地で、WEB制作やアプリ開発を中心にお仕事をさせていただくようになりました。

幼稚園の先生になりたくてシンセサイザーを練習したことがMacintoshの購入へと繋がり、メジャデビューを目指してMacintoshと格闘した日々があって、こうして起業に繋がったんだな。夢中で挑戦してきたいろんな点が、気づいたら線になったよ。人生は不思議だね。

ドラッカーの学びが人生の軸に

5年前かな、有限会社オートボディーツタの津田尚幸さんが高山で「ピーター・ドラッカー(経営学者)」の読書会を企画していて、「武田さん来ない?」って誘われたんです。「いいよー。」と気軽に行ってみたら衝撃。「これだ!!」と思った。

バブルの時代はがむしゃらに働いて、ひたすら利益だけを追求するのが正義。「お人好しじゃ仕事にならない。」「ビジネスに人間性は関係ない。」そんな時代だった。哲学・思想・宗教では「世のため人のため」と説いているのに、なぜ働く現実はそうではないのだろう。昔から疑問だったのですが、ドラッカーは真反対なのね。むしろ人間味に溢れた本質や強みを活かして、仕事をするのが大切だと教えられる。スッと胸のモヤモヤが晴れて、一気にドラッカーに傾倒しましたね。若いうちから読んでおいたほうがいいよ。

 

昔の高山は、強烈なカリスマ的リーダーがいて、そのリーダーが無理矢理にでも引っ張り上げていくような時代だった。たしかに情報・知識・前例がない中では、声を大にして「俺の言うことが聞けんのか!」と押し進める人が大事。

 

でも今は情報が溢れていて、検索すれば分かる時代です。社会が多様化して、変化は多元的に世の中に現れている。トップダウン経営の時代は終わったんだから、それぞれの人間性や公益性にスポットを当てたビジネスをやらないとね。そのヒントはドラッカー先生が教えてくれたんだよ。まだまだ僕も貪欲に学んでいかないとね。

「優秀な若者を逃さない高山」を創る

高山で一番好きな景色は、片原町だね。小さい頃住んでいたけど、変わらない原点。本町2丁目から緑色の筏橋を通って、曲がった先の情景が忘れられない。50年前がフラッシュバックする。一番好きというか感慨深くなる場所だね。

 

飛騨の未来をみんなで創っていきたいな。20年後30年後の未来は、今創る。これからはトップダウンじゃなくて、みんなでいろんな意見を出し合って対話する時代。意見の不一致を一つの形まで合意形成していく過程が必要だよ。僕は高山市の未来に、ものすごい危機感を抱いている。一つは観光、もう一つは若者の流出

 

日本全国観光地化の時代だからさ、高山に観光で訪れる理由はなんだろう。高山は観光において50年の歴史があり、それは先人が積み上げてきた素晴らしい財産だよね。でも今から30年後には、現在観光地じゃないところが高山と対等に勝負しているかもしれない。それだけ各地でノウハウや知識・情報が積み上げられてきているからね。

 

でもやっぱり一番の課題は、若者が帰ってこないことかな。帰ってこない理由に「会社がない」と言うけど、僕は「会社で働く」という概念を変えていく必要があるとも思っている。

 

なにかゼロから起こせる力を持った若者が存分に力を活かせる環境を創らないとね。日本全体で若者が少ないんだから、「優秀な若者を逃さない高山」を創るくらいの気概じゃないとさ。経営ノウハウ・リソースの提供はもちろん、純粋な寄付もしたって良い。事を起こす若者に託して支援して、既存の高山にぶらさがらない新たな仕事を創っていく先に、未来があるよね。

 

おそらく自分たちの既存知識の限界だからこそ、強みの組み合わせから未知を生んでいく時代だね。例えば「A建築会社」と「B菓子屋」で強みを組み合わせたら、一体なにができるんだろう?社会の変化や機会を見つけて、それぞれの会社の強みを組み合わせて、みんなで知恵を絞るんだ。その結果、新しい発想が生まれる。それがイノベーションのタネなんだよね。真剣に対話して一緒に考える、その過程にも結果にも尊い価値があるよ。変化に対応した仕事をクリエイトしていくことでができるんだな。

 

 

社会や時代の変化や機会を見つけることはとても重要。日々の習慣にしなきゃいけない。既存の仕事の仕方に捉われない「こういうことはできないのかな?」といった発想が大事だし、それが当たり前の時代はすぐに来るよ。

 

少し前まではいつ引退しようか考えていたけれど、今は死ぬまで働きたい。ドラッカー先生のようにね。「おじいちゃんが教える!80年代ヘビメタギター教室」なんていつかやってみたいね。でも今は、志高い仲間と一緒に語り合いながら、次の世代に繋がる点を創り続けたいな

 

ただただ真っ直ぐに、飛騨の未来への貢献を語る武田さん。夢中で生きてきたが、やがて線となり大きな面を創る。小さなアクションの尊さを示してきた武田さんだからこそ、前向きに未来への布石を創り続けていきます。

連絡先

武田 晃彦(たけだ あきひこ)

https://www.facebook.com/takeda.sarani

株式会社サラニ

 

この記事を書いた人

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丸山純平

丸山純平(まるやま じゅんぺい)
高山市出身。株式会社ゴーアヘッドワークス 企画/ライター
ヒダストのほぼ全ての記事を書いています。
最近は飛騨ジモト大学の事務局も担当。
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