100年企業として、「食のバリアフリー」を実現する ー 清水大地 ( 株式会社清水弥生堂 4代目 )

 

高山市で創業102年、食材から包装資材まで「食のお店」の必需品を提供し続ける、「株式会社清水弥生堂」4代目の清水大地(しみずだいち)さん。

一見、順風満帆に見えるその経歴を紐解けば、泥臭く学んで挑戦する半生を送られてきました。そんな清水さんが志す「食のバリアフリー」とは?
次世代の飛騨を牽引する、若きリーダーのストーリーをご覧ください!

突然の家族会議で後継者に・・。

高山市花岡町で生まれました。3人兄弟の末っ子で、やんちゃな子どもでした。小さい頃からサッカーが大好きで、兄の背中を追いかける毎日でした。創業102年、食料品の卸売業「清水弥生堂」が家業なのですが、実家と会社が離れていることもあり、家業を身近に感じる機会はそこまで多くはなかったですね。よく父親が出張に行く姿を見て、「出張ってカッコいい!」とは思っていました(笑)。

 

中山中ではサッカー部に打ち込みながら、その頃に「弁護士」という職業を知って、なぜか憧れを抱いたんです。弁護士を夢見て、斐太高校を経て千葉大学法学部に進学しました。都会で初めての一人暮らし。飛騨弁で話しまくっていたら、周りにバカにされたことをよく覚えています(笑)。

 

 

千葉大学生協学生委員会(JCK)という組織に4年間所属して、サークル活動がメインの大学生活を送りました。大学生協から支援を頂きながら、新入生向けのオリエンテーションやスポーツ大会を企画する活動です。留学生委員会の立ち上げにも関わり、留学生との大規模な交流会を開催した経験は今にも繋がっています。高校生の頃から語学が好きだったこともあり、授業の一環で中国の湖南大学へ交換留学にも行かせてもらいました。

 

大学2年生の後半には、周りの弁護士や司法書士を目指す学生がダブルスクールで専門学校に通い始めるんです。僕はどうするんだろう?と将来を考え出した時期に、突然家族会議が開かれまして、僕が家業の後継者となりました。自分が選ばれた理由は正直よく覚えていません(笑)。どうしても弁護士になりたい訳ではなかったので引き受けました。それでも就活前に、自分の将来が決まっていることで辛い時期もありましたね。

 

ファーストキャリアはバリバリのベンチャー

すぐに帰って来いとは言われてなかったので、最初の3年間は修行しようと様々な就活イベントに足を運んでいました。そこでたまたま『ベンチャー通信』という情報誌を見つけたら、サッカーチーム「アルビレックス新潟」を創業された「池田弘」さんの記事が載っていたんです。神社の跡取りとして生まれ、家業を継がねばならぬ宿命に悩んだ結果、地域活性を志した池田さんの記事に感動しました。自身の境遇を重ねて、僕も地元に貢献するためなら・・と継ぐことに意義を持て、気持ちが晴れたんです。

 

その後、別の就活イベントで偶然出会い声をかけてもらったのが、『ベンチャー通信』を発行している「株式会社イシン (旧名「幕末」)」でした。出会いに運命を感じ、会社見学などを経て気づけば内定をいただいていました。

 

 

2008年にリーマン・ショック(金融危機)があって、ベンチャー系が一気に崩れたんです。ちょうど僕は内定者インターンをしていた時期でしたが、当然どの会社も元気がないから広告が集まらない。その影響から会社の業態が変わり、学生向けの採用情報誌から、業界・法人向けの情報誌が中心になりました。入社してからは毎日、ひたすら営業です。入社してすぐの頃は、渋谷のマップを渡されて、割り振られた担当のビルに飛び込み営業をすることもありました。ビジネスのことを何も分からない状態だったので、とにかくガムシャラでした。

 

毎日何件も新規のお客様を訪問していたので、訪問企業のビジネスモデルを必死に調べて、自社媒体をどうアピールしたらよいのか考える、大量のインプットとアウトプットを繰り返す日々です。おかげで新卒から欠かさず日経新聞を読む習慣がついて、世の中の流れを学び続けています。

 

地元へ戻り、下働きからのスタート

入社2年目に諸事情で先代から帰ってこいと言われ、まだ結果を残せていない中で悔しかったですが、8月で会社を辞めました。翌年1月から家業に入社することになり、空いた数ヶ月間は秋葉原のコールセンターで日銭を稼いでいました。テレアポは散々経験してきたので業務の余裕はありましたが、心情は辛かったです。自分は今、なにをしているのだろう・・と。

 

それでも欠かさず日経新聞を読みながら、高山に戻ったらどんな挑戦しようか考え、イメージを膨らませる時間でもありました。「地域活性ってなんだろう?雇用の促進?お客様を儲けさせること?」あの頃考えていたことと、今リンクすることはたくさんあって、決して無駄な時間ではなかったです。

 

そうして高山に戻り、清水弥生堂に入社しました。周りは後継者として見ているけれど、それにあぐらはかけないし、東京で結果を残せずに戻ってきたから、内心ズタズタのスタートでした。最初はもちろん下働きからです。一軒一軒配達してお客さん先を覚えて、食品の知識もゼロだから、レシピ本を読んで作り方や材料の名前を覚えたり・・。毎日ケーキ屋やパン屋に一人で入って、商品を買って食べ比べるのを習慣にしていたらすぐに太りました(笑)。ガムシャラに働き、必死に学ぶ日々を送ります。

 

 

面白いのが、泥臭く頑張っているとブレイクスルーの瞬間が来るんですよね。半年くらい経った頃かな、自社がどんな商売をしていて、お客さんにどういう話をしたらよいのか、ポーンと分かり始めてきたんです。そうなると楽しいし、前職の経験も生きてくるのが実感できる。「この世界で続けていけるかも。」そのちょっとした自信が、やがて使命感・責任感へと変わっていきます。

社員の平均年齢は33歳。若手にどんどん委ねたい。

前職がバリバリのベンチャー系だったため、当時の同期は野心に溢れていたし、日々傷つきながらも食らいついていくような体育会系の職場でした。

 

当時清水弥生堂に入社してきた新入社員にその感覚で接していたら、全然僕について来てくれなかったんです・・。土壌が違い過ぎましたね。その経験から、大学時代の後輩との関わりはフレンドリーで自然体だったことを思い出して、徐々に切り替えていきました。今でも、あの頃の後輩たちには申し訳なく思っています。

 

 

今では会社の人事・採用も担当しています。飛騨の中小企業共通の悩みですが、大学生にはなかなか見向きをしてもらえませんね。大学を出て戻ってくるとしたら、教職か役所か銀行か・・。その中で古めかしい中小企業にどう興味を持ってもらい、選択肢に入れてもらうか。採用は本当に難しいです。

 

 

ある意味、有名にならなきゃいけないですよね。地元に長く根付いているけど、面白そうな挑戦もしている会社だなと。幸い、今の社長(3代目)は頭が柔らかく、新しい挑戦に関して社内的な難しさはあまりないので、そんなイメージが広まって生きてくればいいな。

 

それでも人手不足が叫ばれている中で、ありがたいことに清水弥生堂は若手がすごく多いです。社員の平均年齢は33歳で、来年は新卒を6人採用します。定期開催している社内勉強会でも、若手がプレゼンターになってみんなで知識向上を目指しています。一人で抱え込まずに共有し合って、共に勉強していく組織で在りたいです。自分は裏でサポートできるように、若手や部下にどんどん手放していく。最近ようやくできるようになりました(笑)。

国際観光都市だからこそ、「食のバリアフリー」を

東京で食品業界の展示会に参加した時に、ハラール(イスラムの教義で「合法」という意味)のセミナーがあったんです。前職時代の同期から「京都でハラールビジネスが流行り始めている」と教えてもらっていたこともあり、セミナーを受けたらすごい人数が参加していました。日経新聞にもワードがよく出てくるようになり、何か動く気がしたんです。

 

高山市としてもアジアに投資していくタイミングで、ちょうどムスリム(イスラム教の信者)の観光客も増え始めた頃でした。株式会社サラニの武田晃彦さんと意気投合し、舩坂酒造店の有巣弘城さん達にも協力してもらい、2014年に「飛騨高山ムスリムフレンドリープロジェクト」を立ち上げます。名古屋のモスク(イスラム教の礼拝堂)や先進地である長野県白馬村に行って、現場で対応法を直接教えていただきました。

 

ムスリムの方と言えば、一般的には「豚肉とアルコールを口にできない」イメージがありますよね。しかし例えば「醤油」も、製造過程でアルコールを添加することが多いため、気をつけなければなりません。原材料はもちろん、製造・加工されて食卓に並ぶまでの過程で混入しないことが重要なんです

 

スタート時は何も分からなかったため、ハラル認証(イスラム教の戒律に則って、調理・製造された商品であることを証するシステム)の商品をとにかく仕入れようと思い、様々なメーカーに引っ切りなしに電話しました。しかし、「原料を仕入れても、対応できるお店がなかったら意味がない」と感じる部分もあり、「ハラール認証がないと、本当にムスリムの人たちはお食事ができないのか?」「もっと自然体で、無理のない対応法はないのか?」とプロジェクトチーム内で話し合いを繰り返したんです。

 

そうして、何件かの飲食店でムスリム対応のメニュー開発などを行い、徐々に実績が出来てきました。その結果として、「ムスリムのための街歩きマップ」を作成することにも繋がります。

 

 

この活動をしている間、社内で「遊んでいるんじゃないか?」とは思われたくなかったので、新しい機械を販売したり、大きな売り上げを出したり、本業にはより力を入れましたね(笑)。

 

正直僕自身、ムスリムの方は特別な人だと思い込んでいましたが、一緒にごはんを食べたら「言葉や宗教が違うだけで、同じ人間じゃん!」と気付きました。考えてみたら当たり前なんですけどね。

 

 

今後は「食のバリアフリー」を合言葉により力を入れて、アレルギーベジタリアン(菜食主義)にも対応できるようにしていきます。特にベジタリアンの中には、卵は良いけど乳はダメだったり、五葷(ごくん)と言う玉ねぎやニラが食べれなかったりと、いろんなタイプがあるんです。あらゆる宗教や体質の方が飛騨に遊びに来ても、食事を楽しめる環境整備をしたいですね。奥が深いので、勉強し続けるしかないです。

 

「雇用創出こそ最大の地域貢献」、創業200年を目指して

高山で好きな景色は、家の近くから見える乗鞍ですね。朝、登校する時に東を見ると広がる景色が乗鞍でした。空気が澄んだ時はまた綺麗で、やっぱり高山だからこその美しさだと思います。

 

清水弥生堂は創業102年を迎えます。一昨年に創業100年を記念して、「清水弥生堂100年物語」として曽祖父・祖父・父の苦労話を記事にまとめて、インタビュー動画も撮影したんです。その歴史が生きていることを実感すると、簡単には絶やせないと身が引き締まります。

 

 

これからは地場産業が頑張らないといけない時代です。常々思っていることは、「同じ地元の清水弥生堂から買うよ。」といった言葉に満足したくはないんです。「同じ地元で、小回りも効く。いろいろ提案もしてくれるし、頑張ってくれる。だから清水弥生堂から買う。」そんなイメージですかね。

地縁に頼るだけの時代ではないので、自分自身勉強し続けなければいけません。「フットワークとネットワーク」を大事にしています。足繁くどこへでも伺う軽快なフットワークを武器にして、そこで出来たご縁をネットワークとして、次にしっかりと繋げていく。これをひたすら繰り返しています。

 

と言いながら、もちろん地縁はありがたいです。小さい頃一緒に遊んでいた友達が、今は取引先であったり、仲良い経営者の同志であったりする。いろんな先輩方にお世話になって、今の僕や会社はありますから、それは高山だからこその地縁ですよね。

 

地元に帰って来て新しい取り組みをしている30代が、飛騨にはたくさんいます。「たまたま飛騨のこの世代に、これだけの人たちが集まったのは何かしろということだな。」と、ある先輩がいつも言うので、何か頑張らなきゃとプレッシャーを感じています(笑)。

 

「国際観光都市 飛騨高山」は先人達のおかげで成立しましたが、現状で止まらずに、僕ら30代が中心になって取り組むべきことがきっとある。僕もそんな気がします。

 

 

「雇用創出こそ最大の地域貢献」とある経営者が仰っていましたが、僕もすごく共感します。地元に帰ってきたい若者を採用し、しっかり活躍できる場にしていきたいです。覚悟を決めて、地元に帰ってきたからこそ思う使命なのかな。創業200年を目指して、これからも泥臭く歩み続けます。

 

100年企業の歴史を背負い、学びと挑戦の日々を送る清水大地さん。
若きリーダーが描くビジョンと志は、100年後の飛騨の未来へと着実に繋がっています。

「食のバリアフリー」を実現し、地元に「雇用を創出」するために、今日も清水さんは泥臭く歩み続けます。

連絡先

株式会社清水弥生堂 公式ホームページ
http://yayoido.com/

清水弥生堂100年物語
https://yayoido.com/story/

株式会社清水弥生堂 公式Facebookページ
https://www.facebook.com/yayoido/

飛騨高山ムスリムフレンドリープロジェクト
https://www.facebook.com/mfpht

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